富とは何か(8)

 経済活動とは、生産、流通、分配、消費という一連の流れの総称である。生産をするのは、最終的には産出される財やサービスを消費するためであり、人が生きるために必要な財やサービスを生産して、分配して消費することがその本質である。それらの活動は現代社会では企業を中心に行われ、それを行う動機の根本は利潤を得ることである。しかし、それもまた、最終的には、利潤を手に入れることにより財やサービスを手に入れ、消費するためである。したがって、経済の状況を考えようとするならば、このどの局面を見落としても正しい理解を得ることができない。生産だけを行って、消費を考えないということは本来的にはありえない。

 生産されたものが社会に供給されるとして、その需要はどこからくるのだろうか。

 財やサービスの供給に対して発生する需要は、第一に、生産活動に伴い労働者に支払われる賃金である。賃金は消費となって市場に現れる。支払った賃金がすべて消費に充てられたとしても、これだけでは需要は供給にはるかに及ばない。なぜならば、商品の価格は賃金を含むコストよりも高く設定されるから、財やサービスの供給の総額は支払った賃金の総額を超えるはずだからだ。

 経済活動をマクロ的に捉えるならば、供給に対する需要は、消費と投資と政府支出と海外需要である。このうち、最も安定的なのは消費で、最も変動が激しいのが投資である。消費は日々の生活を維持するのに必要な財やサービスの提供を受けるものだから安定的である。一方、投資は、将来の経済の期待に基づき、利益が得られると考えると投資し、利益が得られないと考えると見送るというように不確実であり、変動が大きい。したがって、経済の変動、循環は、基本的には、投資が決定づけることになる。つまり、投資が活発であれば景気は好景気となり、商品がよく売れ、生産現場はフル稼働となり、場合によれば品不足になり、当初、予期した以上の価格で販売でき、企業の利潤は拡大することになる。このような投資が活発に行われたのが高度成長期である。その当時は、社会全体がまだまだ物不足の状態で、作れば売れる状態だったので、生産能力を拡大するために積極的な投資が行われたからである。投資は生産能力を拡張しようとして行われるが、その投資自体もまた需要となり、さらに需要が上積みされることになるので、物不足は一層激しくなり、投資が投資を呼ぶ状態となり、景気が過熱することになった。

 しかし、1970年頃には、我が国は先進国のキャッチアップを達成し、経済の拡大は一段落することになり、低成長の時代に移行した。国内の投資が低下すると、国内の需要は低迷をすることになる。それを補うために着目されたのは海外への輸出である。我が国の輸出への傾斜は、一時の繁栄を我が国にもたらしたが、海外の諸国との貿易摩擦を引き起こし、それは為替の変動、著しい円高を引き起こし、我が国経済は、貿易黒字の縮減を迫られることになった。

 海外需要の縮減を補うために行われたのは、財政赤字の拡大であった。ここに我が国の財政悪化が拡大する必然性があった。財政赤字は、行政の無駄遣いといったレベルの話ではないのだ。

 しかし、財政赤字の継続は、財政の維持可能性の懸念をまねき、行財政改革が叫ばれるようになった。

 こうした状況を打破するために登場したのが、構造改革路線であり、財政支出の抑制を目指したものであったが、財政支出の抑制は、当然のことながら経済全体の需要を減らすことになり、景気が悪化するたびに経済対策として財政支出の拡大、減税などの措置が取られ続け、政府の累積赤字は拡大の一途をたどった。また、この間、新自由主義的な考えが主流となり、市場の自由化や労働規制の撤廃などの競争を激化させ、国民の労働条件、収入環境の悪化を招くことになった。

 経済の発展段階が高度成長期を終えてしまった今となっては、過去のように投資が高水準に達することは基本的にはない。そうなれば、経済全体の需要は慢性的に不足し、それを埋めるために海外への輸出拡大を続けることもできない。その根本的な問題解決は、外需に頼ることなく、内需で国内経済を回せるようにする「内需主導型の経済」への転換が必要であった。1980年代以降は、我が国の経済の改革は、これがメインテーマであったはずだ。言い換えると、国全体が豊かになったので、その豊かさを国民が享受するようにしなければならなかった。つまり、「豊かさの享受」こそが課題であったのだ。

 ところが、取られた政策は、その逆方向であった。

 低成長下は、恒常的に需要不足の状態であり、企業にとっては利潤が不十分な状態である。それを補うために、労働コストの引き下げが図られ続けた。賃上げの抑制、労働の自由化、規制緩和により、派遣労働の自由化、女性や高齢者の能力活用の名目で低賃金のパートや再雇用、外国人労働者の移入などの施策がとられ続けた。また税制においては、法人税所得税の税率の引き下げとともに、逆累進制と言われる消費税への置き換えが進められた。また、年金の支給額の抑制のための引き下げなども行われた。その結果陥ったのは、縮小均衡に陥った我が国の経済であった。

 我が国の経済は、もともと強蓄積型で、国民が生活を切り詰め、節約して投資を行う社会であったが、経済成長を遂げ社会が豊かになった時に、そのスタイルの変更を行うべきであったのだが、それができなかった。投資がそれほど必要でなくなった社会では、供給と需要のギャップが生まれる。このギャップを埋めることが課題になったときに、真の原因から目を背け、それを埋めるのではなく、埋めることに抗い続けたのが我が国の経済政策であった。その結果、経済は低迷を続け、30年にわたってゼロ成長の状態に陥り、そこから抜け出せなくなってしまった。その間に、海外の諸国は成長を続け、我が国は遅れをとるようになった。近年は異次元の金融緩和として円安誘導が行われ、国民は海外の品物を高額で買うことを余儀なくされ、生活はすっかり貧しくなってしまった。

 我が国が現在直面している課題は、これまで未解決のままでいる「豊かさの享受」である。国内には十分な生産能力があるにもかかわらず、それを国内で消費することができない。物はあふれているのに、また、人々は物への需要を抱えているのに、それを手に入れることができない、それを解決することが我が国の課題である。本稿の第5回で述べたように、我が国は「世界最大の対外債権国」だ。長年、勤勉に働き、資産を積み上げてきた我が国の国民は、豊かさを享受する資格は十分にある。そして、それは、我が国の生産性を上げ、新技術を開発し、再び世界をリードすることにもつながるだろう。

 

 「成長か分配か」と二者択一で論じる意見があるが、生産能力という点では、我が国はすでに十分な能力を有している。それを不十分にしか稼働させていないというのが本稿の見立てである。したがって、現下のこの課題については、分配が優先となる。分配を増やすことによって、現在有する生産能力から生み出される豊かさを十分享受すべきである。その上で、さらに財やサービスが必要と考えるのであれば、生産能力の拡大のための投資を行うべきである。ところが、「成長がなければ分配がない」というのは、生産能力が不十分にしか活用されていない状況で、さらに生産能力を拡大するために、国民にさらなる節約を強要することになり、それは、これまでの強蓄積型社会の強化につながり、ますます解決から遠ざかることになってしまう。これまで長年に渡って続けられた、企業が利潤を確保できる条件を整えて投資を拡大しようとする試みは失敗に終わった。その間、国内の消費は冷え込み、そのような環境下で投資をしても利益が見込めないからだ。その帰結が、30年にわたるゼロ成長であった。

 

 では、「分配」はどのように実現すればよいのであろうか。

 結局は、お金の余剰のあるところから、お金のないところにお金を回してやればよいということになる。具体的には、企業は大きな利潤を発生させているが、それを国内で使用せずに蓄積してしまっている。その使用されない利潤を、一般の国民に分配すればよいのだ。利潤を蓄積することは資本主義社会では根本的な原理であるから、これを行うには法律による強制力が必要である。つまりは、使用されない利潤に対して課税を行って社会全体に還元させる仕組みが必要である。これを行うのは激しい軋轢を引き起こすだろうから、当面は、政府が通貨を増発して財源を確保して、公的支出または税の減額等を通じて国民に分配することが妥当であろう。その後、時間をかけて安定的な分配構造を構築するべきだろう。