国の財政状況について

 我が国の政府の財務諸表(貸借対照表、資産・負債差額増減計算書、平成30年度)が財務省のホームページホームページ上で公開されている。「資産・負債差額増減計算書」は損益計算書に相当するものだ。

 

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(出典 財務省HP)

 

 これによると、貸借対照表の資産の部の合計1,012兆円に対して、負債の部の合計が1,517兆円と、504兆円の債務超過状態となっている。また、単年度(平成30年度)の収支では12兆円の赤字となっている。

 これを見ると、我が国の政府は大変な赤字で、もはや財政再建は一時の猶予もならない問題であり、国に対してなんらかの政策を求めることすら非常識なことだとさえ思えてしまう。

 しかし、そうした理解は正しいのだろうか。もし、このようなバランスの企業があれば、ただちに倒産の憂き目にあうだろう。債務超過の会社にお金を融資することは、みすみす貸し倒れになるようなものだからだ。

 ところが実際は、こうした状況であるにもかかわらず、誰一人、政府が本当に倒れてしまうと心配する者はなく、逆に、政府の一部とも言うべき日本銀行が発行する日本銀行券(円通貨)は、これを獲得しようと皆が血眼になり、人々は一度それを手にすれば二度と手放すまいとするほどの執着を示している。

 これは、どう考えるべきなのだろうか。

 おそらく、政府を、一企業や、家計にたとえて考えることが誤っているのだ。

 元々、貸借対照表は、企業の財務状況を表すためのもので、その趣旨は、その企業がどのように資金を調達して、どのように財産を持っているかを表し、最終的には企業の正味財産がどれだけあるかを表すものだ。それは、つまるところ、企業の清算と利益の分配を目的としたものだ。その歴史的な由来は、中世ヨーロッパの地中海の都市国家で、商人が出資者から資金を募り、商品を仕入れ、商船を調達して航海を企て、一航海が終わるたびに財産を清算をするような商業で用いられたものと言われている。その後、永続企業が一般的になってくると、企業の財政状態を表示し、資金調達の際の信用保証のために用いられるようになったものだ。基本的には、企業の財政状態を表し、投資者の投資の安全性の判断に資するものだ。

 しかし、そのような短期間、小規模の企業の経営判断には有用であっても、長期的、大規模な企業にそれを用いるのは、少々不自然なところがある。というのは、数字の上では確かに、その財務諸表の示すとおりなのだが、永続性を前提とする以上、これを清算する、財産を一斉に処分するようなことは現実的ではない。そもそも買い手があるのだろうか。買い手がなければ値段がつかない。また、巨大な企業であれば、その企業が財産を処分しようとすると財産の相場にも影響を与えかねない。

 近年、近年、この財務諸表を公的分野に適用しようとする風潮があるが、これはもっと不自然だ。実際に、地方自治体や国の財産を一斉に処分するようなことは、あり得ない。いったい誰が、役所の庁舎や学校の建物を買うというのだろう。

 一企業であれば、投資家の信用がなくなれば立ち行かなくなる。しかし、政府は法律による強制力を保持しており、強制獲得の典型である徴税権をもっている。しかも、究極の資金源として通貨発行権まで持っている。だから、もともと民間同士の信用によらざるを得ない一企業と同列に扱うことはできない存在なのだ。それらの権能を、あえて財務諸表であらわそうとするなら、徴税権や貨幣発行権をなんらかの資産化して計上しなければおかしな話になってしまうだろう。これらを仮に資産として計上するならば、おそらくその価値は巨大な額となり、たちどころに超優良な財務諸表ができあがるだろう。

 ことさら不完全な財務諸表を作成し、流布しようとするのは、単なる無理解なのだろうか、あるいは、なんらかの意図があるのだろうか。財政をことさら悪く見せ、政府に対する要求を抑制させようとしたり、または、本当は無尽蔵に近い財源を限りあるものとして見せることにより、その番人たる財務官僚、政治家の求心力にさせようという意図がありはしないだろうか。

 国の財政は国民の財産であり、国民のためにあるものだ。一般常識に捕らわれず、叡智を集めて、是非とも国民の生活のために、特にこの非常の事態においては有効に活用をしてほしいものだ。