東京一極集中と神戸の役割(3)

 関東地方(東京圏)と近畿地方(関西圏)の人口比率の推移を見てきたが、それに対して関西圏は有効な手を講じてきたのだろうか。どうして、ここまでの大差を許してしまったのであろうか。

 

(関東地方(東京圏)と近畿地方(関西圏)、東京都と大阪府の人口比率の推移)

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 上のグラフで、茶色のグラフは東京都と大阪府の人口倍率を表したものである。1888年(明治21年)には、両者はほぼ同数であったことがわかる。その後、東京都が、多少の変動がありながらも、大阪府との人口倍率を上げていき、戦前には1.6を超えるまでになる。その後、戦災で倍率は1.2まで縮小するが、戦後は再び倍率が拡大し1960年頃には1.8近くまでに達する。ところが、その後、この倍率が下がりはじめ、1970年代には1.4を下回るまでになる。この背景には、大阪府下のニュータウン開発や1970年の大阪万博の成功があったものと考えられる。その後、倍率は2000年頃まで1.4を下回りほぼ一定の水準の状態が続く。そして、1990年代の後半になって、再び倍率が上昇しはじめ、直近の2018年には1.6近くにまで達している。

 一方、これを都道府県単位ではなく、東京圏と関西圏で倍率をとったのが青色のグラフである。やはり1888年当時は、ほぼ同等の人口圏であったものが、その後、ほぼ右肩上がりで倍率が上昇し続け、2009年には、ほぼ2.0近くにまで達している。つまり、この間で、東京圏は関西圏の2倍の人口規模に達したということだ。

 上記のグラフをみると、大阪府は対東京都では必ずしも長期低落を続けていたわけではなく、1960年代から1990年代にかけて東京都に追いつきつつあるように見えた局面があった。そのため、東京と大阪の二大都市という見方からなかなか離れることができなかったのではないだろうか。そのように思えた背景としては、人口倍率が縮小し、その中で1970年の大阪万博の大成功があった。その後、大阪は2001年には大阪オリンピックの招致、2018年には大阪万博招致と、大規模イベントを繰り返すようになった。その際、必ず引き合いに出されたのは、1970年の大阪万博であった。

 その一方、都市圏として見てみると、東京圏の人口は関西圏の2倍に達するまでの大差となってしまった。それ以上に、東京を中心とする交通体系はますます拡充され、空港においても、都心に近い羽田空港の滑走路の相次ぐ増設、国際定期便の復活など、航空容量も関西圏の3倍近い規模となっている。気がつけば、東京を中心とし、北海道から中部を包括する巨大な経済圏ができあがってしまったのだ。それに対して、関西圏は一地方の地位に転落をしてしまったのだった。

 そうした大変動に対して、関西圏は、交通中心を東京から取り戻す視点をもって施策に取り組んだだろうか。おそらく、そのような大局的な視点は持ってこなかったのではないだろうか。その最大の例は、関西圏はもとより西日本全体に便利な神戸ではなく、大阪南部の振興を意図して関西国際空港を建設し、さらに、容量が十分あるにもかかわらず神戸空港の使用を制限し続けていることだ。こうした判断には合理的な判断は認められないが、未だに、これを払拭することすらできていない。この間、関西圏で行われたことは、長期的なビジョンもない一過性のイベントを、地域興しのカンフル剤として繰り返すことだった。

 このような、関西圏の広域的視点がなく、展望に欠ける施策が、古くからの経済の中心地である関西圏を一地方に転落させてしまったのだ。