法治主義と民主主義(斎藤兵庫県知事の公益通報者保護法違反問題に寄せて)

 斎藤兵庫県知事の公益通報者保護法違反問題については、これまでの県の第三者委員会の報告や、主務官庁である消費者庁や総務省の技術的助言が行われたことなどからも明らかなように、斎藤知事の法令違反はすでに明白であり、議論の余地はない。にもかかわらず、いまだに斎藤知事は、自らの非を一切認めず、誤りを是正しようとせず、その地位にとどまり続けている。これに対して、兵庫県知事の定例記者会見が開かれる際には、毎週、大勢の人々が県庁前に集まり講義の声を上げるということが1年以上にわたって続いている。

 

 この問題について論じる有識者といわれる人達の中でも、斎藤知事の法令違反を認め、辞職を求める意見を述べる一方、辞職後、再度出馬して「県民の信を問え」と結論づける論説が散見される。こうした考え方は、2024年9月の不信任案可決、出直し再選挙の際にも見られたものであるが、筆者は、こうした主張に強く違和感を感じるものである。その違和感の原因こそ、今回の問題の解決を阻み、混乱を招いている原因だと考えられる。それは、民主主義と法治主義の関係についての問題である。

 

 法治主義と民主主義はどちらが優先されるべきか。一般に、法治主義と民主主義は車の両輪であり、どちらも不可欠であるということが言われるかもしれない。

 一般論としては、上の議論は誤ってはいない。しかし、「ニワトリと卵」の次元で考えるならば、法治主義が優先されるべきだ。行政の長は適正な手続きで選ばれなければ民主主義は成り立たない。不適正な手続きで選ばれた者には行政を執り行う正当性はない。

 現代の民主主義社会は法治主義が前提である。つまり法治主義の優先である。一般の公務員が、着任にあたって、日本国憲法、法令の遵守への宣誓が義務付けられているのは、その具体化の一つである。県知事などの公選で選ばれる特別職の公務員も当然、一般の公務員以上に厳しくそれが求められなければならない。そもそも、それが守れない人は、公職の欠格者というべきである。(一般社会においても、法令を遵守しない人は社会の構成員として問題はあるが、「欠格」という概念があてはまらない。)

 

 兵庫県知事の問題は、つまるところこの問題に行き着く。斎藤元彦氏の存在は、この原則、すなわち法治主義の優先のアンチテーゼとなっている。

 

 市民の側にこの点についての理解の混乱があるように思われる。しかし、この問題については有識者にすら混乱があり、問題を正しく整理できていない。つまり、冒頭で紹介した事例のように、最終的な判断を有権者の投票に委ねようとする傾向である。違法行為が投票によって適法となることなどありえない。民主的な正当性と個々の行為の法的な正当性は別次元の問題である。「広義の民主主義」と法治主義と民主主義(多数決原理)という場合の「狭義の民主主義」を区別して考え、法治主義の優先を再確認しないと、それは「独裁国家」になってしまう。兵庫県の問題が深刻であるのはこの点である。そして、斎藤知事の居座りの「成功」により、こうした傾向が全国的に拡散しつつあるように思われる。

 選挙は法に従って行政を執行する権限を与えるための手続きと理解されるべきである。法律を守れない人は公職の欠格者なのだ。安易に、出直し選挙、禊を求める論説は強く戒められるべきである。この「有識者」の混乱が、社会の混乱に拍車をかけている。法律を尊重しない人に公職の資格はない。この考え方を有識者、市民が広く再確認をする必要がある。欠格者が選挙に出馬することを当然のように受け入れる風潮は決してあるべきではない。