東京一極集中と神戸の役割(2)

 1888年(明治21年)と2009年(平成21年)の人口を地方別に集計をするとどうなるだろう。

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 表から何が読み取れるだろう。

 1888年の欄を見ると、各地方がほぼ同程度の人口規模であったことがわかる。しかし2009年の欄を見ると、最大の関東地方(8~14)が4200万人で日本全体の3分の1を占めるようになっている。関東地方と近畿地方では、1888年にはほぼ同数であったものが、2009年では関東地方は近畿地方の実に2倍近くの規模になっている。

 1888年から2009年で、日本全体の人口は8700万人増加しているが、関東地方の増分は3500万人であり、全体の約4割を占めている。関東地方に北海道・東北地方(1~6)、中部地方(15~23)を合わせた東日本の人口の増分は、5800万人となり、日本全体の増分の3分の2を占める。それに対して、近畿地方(24~30)以西の、中国・四国地方(31~39)、九州・沖縄地方(40~47)の西日本の増分は2900万人に過ぎず、東日本の半分である。

 その結果、1888年には、西日本(近畿、中国・四国、九州・沖縄)の人口は1900万人で日本全体のほぼ2分の1であったものが、2009年には3分の1になってしまっている。

 以上より、我が国のこの間の人口増加は東日本が主導しており、東京を中心として北海道・東北、中部がその周辺部として一つの経済圏を構成するようになったことが読み取られる。それを実現をしたのが、東京から放射状に伸びる鉄道網、道路網であったのだ。また、航空機の発達は、西日本各県の東京への直結を招いた。その結果、近畿圏は日本の交通の中心、経済の中心の地位を失い、一地方に転落してしまった。

 1888年から2009年までの人口の推移は、近畿圏が置かれた厳しい現実を、如実に表しているのである。