神戸市はいかにして「衰退都市」となったのか

 神戸の人口減少が止まらず、ついに150万人の大台を割り込むことになった。

 かつて神戸は、世界有数の貿易港として栄え、昭和の初期には東京、大阪に次ぐ、国内第3位の人口を誇った。今では、福岡市、川崎市にも相次いで逆転され、全国第7位にまで順位を下げている。

 人口減少に歯止めがかからず、もはや「衰退」という二文字が目の前に突きつけられている。

 神戸はもはや、この頽勢(たいせい)を挽回することはできないのだろうか?

 

 この問題を考えるにあたって、逆に、なぜ神戸はこれまで大都市足り得たのかを考えることが、解決のヒントを与えてくれるかもしれない。

 

1 神戸はいかにして大都市となったのか

 神戸港は1868年1月1日に開港した。その直後の1月27日には鳥羽伏見の戦いが勃発し、時代は江戸から明治に移ることになる。神戸はまさに、時代の大きな転換点に誕生した。

 神戸が開港場として選ばれたのは、大坂が河川の影響で水深が浅く大型船舶が停泊するのに適していなかったのに対し、水深が深く、近代の大型船が停泊するのに適する「天然の良港」であったからである。神戸に対する人々の期待は大きく、神戸は大坂の影響から免れるよう、明治政府の意向により摂津の国から切り離され、兵庫県県都として発展していくことになる。

 当時、海外と国内の「気圧差」は現代とは比較にならず、それは猛烈な上昇気流を生み出し、すさまじい求心力を発揮した。当時、交通の主力は水運で、神戸は水路を通じて日本中と交通を通じることができた。山が迫り平地の少ない地形は、すべての交通を神戸に集める要因となり、陸路でも、山陽道西国街道を起源とする国道2号線が神戸と西日本の主要都市とを結んだ。明治7年(1874年)に大阪=神戸間に鉄道が開通し、やがて東海道本線山陽本線の起点となり、まさに我が国の国際・国内交通の中心地となった。さらに、日清、日露戦争を経て、わが国の海外植民地への交通の中心地としても発展していった。(先のNHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」で、主人公が出身地の土佐から東京へ向かうのも、台湾へ植物調査に向かうのも、神戸を経由したのはそうした状況を物語っている。)

 神戸は世界的な港湾都市として、我が国の海、陸の国際・国内交通拠点を独占することになった。この頃に、神戸は人口が100万人を突破し、国内第3位の人口を有する大都市となって繁栄を極めた。それが昭和の初期である。現在の旧居留地界隈に残っている堂々たる石造りのビル群は、その当時のものである。

 

2 神戸はいかにして優位性を失ったのか

 ではどうやって、神戸はこの優位性の独占を失ったのだろうか?

 

 第二次世界大戦で神戸は他の大都市と同様、戦災により灰燼に帰するが、いったんは復興を遂げた。しかし、次第に神戸の繁栄には暗い影が差しはじめる。

 1945年の敗戦は、我が国は海外植民地を失うことになった。また、東西冷戦は大陸との交易を制約した。

 

 やがて、自動車が発達し、鉄道から道路の時代がやってきた。

1970年  西宮IC - 摩耶出入口間開通、名神高速道路と接続。月見山出入口で第二神明道路と直結

1983年 中国自動車道全線開通

1997年 山陽自動車道本線開通

 

 これまでは、すべての交通は必然的に神戸を経由する構造となっていたが、自動車交通は神戸を迂回する経路を開くことになった。中国自動車道は中国地方の内陸部を結び、神戸からはかなり隔たった場所を通って大阪と直接結ばれることとなった。さらに山陽自動車道は中国自動車道よりも南側を国土軸に連なる大都市を結ぶようにルートが選ばれたが、これも神戸付近で北側に大きく迂回して大阪と直接結びつけられることになった。一方、神戸を経由する大阪湾岸道路は西伸部が最近になってようやく建設がはじまったばかりで、全体計画の完成はいまだその時期も明らかになっていない。

 

1964年 東海道新幹線開通(東京ー新大阪)

1972年 山陽新幹線(新大阪-岡山)

1975年 山陽新幹線(岡山ー博多)

 

 新幹線の開通も、東京ー大阪間が先行し、神戸の東海道本線山陽本線の起点という輝かしい地位を事実上奪うことになった。

 神戸に新幹線が開通するのは、その8年後であったが、ターミナルではなく、停車駅としてであり、当初は通過列車もあるという、かつての輝かしい神戸には似つかわしくない扱いであった。しかも、中心部からは少し離れた新神戸駅は、大都市の新幹線駅で唯一在来線と接続していないという、交通拠点としては決定的な問題を抱えていた。

 これに対して、神戸市はどの程度の危機感をもって対応したのだろうか。

 このように、神戸は、国内交通の中心地から次第に周辺部に追いやられていった。

 

 また、航空機の発達は空の時代をもたらし、港の役割は相対的に低下して行った。

 そして、神戸の最大の悲劇は関西国際空港から切り離されたことであった。

1974年 関西国際空港 泉州沖に決定

1987年 関西国際空港着工

1994年 関西国際空港開港

 関西空港の開港により、伊丹空港からは国際線がすべて大阪南部に持ち去られ、神戸は国際的な交通拠点からも遠ざけられてしまった。これは国際都市として海外との交通を独占してきた神戸に致命的な影響を与えることになった。

 これまで神戸に置かれていた外国領事館が相次いで大阪に移転するのはこの時からである。

1985年 フランス領事館が大阪に移転

1987年 アメリカ領事館が大阪に移転

1993年 インド領事館が大阪に移転

 

 そして、最後にとどめを刺したのが、阪神・淡路大震災であった。

 

1995年 阪神・淡路大震災

 その被害の甚大さは説明を要しない。神戸港は使用不能に陥り、その間、整備が進められていた大阪港に機能がシフトしてしまった。

 

1995年 インドネシア、オランダ、 ドイツ、フィリピン領事館が大阪に移転

 震災を機に、相次いで、神戸にあった外国領事館は大阪に移転してしまった。

 現在、神戸に残っている外国領事館はパナマと韓国の2国のみである。

 

1998年 明石海峡大橋開通

 明石海峡大橋の開通は、フェリー航路の廃止につながり、瀬戸内海の海上交通は中心的な役割を失うこととなった。神戸は淡路、四国の玄関口にあたる場所に位置するが、明石海峡大橋から神戸の都心に向かう道路整備の遅れは、大阪に直結してしまう効果ももたらした。

 

2006年 神戸空港開港

 すさまじい逆風に耐えて、ようやく神戸空港が開港したが、神戸空港は、関西3空港懇談会の枠組みの中で徹底的な利用制限をかけられることになった。国際線の就航は禁じられ、運用は1日わずか30便の国内線のみに制限された。

 このように、かつては我が国の国際・国内交通を独占した神戸が、今ではどの地方空港でも国際線が就航し、インバウンドの外国人があふれているにもかかわらず、かえって外国人の姿を見ない一地方都市になりはててしまった。

 神戸はまるで経済制裁をされているような状況であった。もしも、このような経済制裁がこのまま続くならば、本当に神戸の都心は消滅し、大阪のベッドタウンの一つになってしまっていただろう。しかし、空港が民営化されたことにより、神戸空港規制緩和、国際化が実現されることになり、まさに「首の皮1枚」残ったというのが、現在の状況であろう。

 

 

 このように見てみると、神戸の衰退は果たして「自然現象」だったのだろうかという疑問が生じる。それとも、なんらかの人為的な作為の結果なのだろうか。

 結論としては、これらは、すべて都市間競争の結果なのではないかと筆者は考えている。つまりは、大阪との都市間競争の結果が今日の神戸の姿をもたらしたのである。

 神戸と大阪は常に綱引きを続けていた。その一つ一つの積み重ねの結果、現在の神戸と大阪の姿があるのだと考えられる。

 神戸と大阪は競合関係にあり、大阪にとっては神戸は常に目障りな存在であったに違いない。すべての交通を、大阪の手前に立ちはだかり、受け止めてしまう神戸をいかに迂回させるか、国際交易の中心地をいかに引き寄せるか、大阪側にこのような積年の念願があり、その念願を果たすべく、一貫して大阪が交通の中心地となるように交通優位性の獲得を実行していったのだ。その結果が今日の両都市の姿なのだ。

 この間、大阪自身も東京に対して大きく水を空けられ、その対抗策として大阪一極集中政策が取られた。その中で、いかに神戸の繁栄を大阪に吸収するかということはまさに現実的な課題であったに違いない。また、兵庫県が大坂から切り離されて誕生したという歴史的な背景も影響を与えているかもしれない。

 関西3空港問題は、その最も明瞭な事例なのであろう。こうした経過を見ると、明治政府が神戸を大坂から分離したのは、すでにそのような懸念を感じ取っていたからではないだろうか。まさに慧眼である。

 

firemountain.hatenablog.jp

 

 ある意味、神戸ほど、巷間に誹謗中傷を浴びる都市はないのではないだろうか。神戸では、何か事を起こそうとすると、必ず大きな反対論が沸き起こる。かつて神戸市の都市経営が華やかなりし頃、神戸市は「開発行政」と激しい非難を受けた。しかし、振り返ってみて、神戸と大阪とを比較して、どちらを「開発行政」と呼ぶべきであろうか。神戸空港に対する非難が絶えないのは、それ単独の問題ではなく、こうした構造を背景として起きている事態の一環であると理解すべきなのではないか。筆者はかつて実際に、神戸の衰退を歓迎する発言をする人に出会ってびっくりしたことがある。

 

3 神戸復活のための方策

 では、神戸は都市の復活のため、どうすればよいのだろうか。

 それは、往年の西日本の交通中心地に返り咲くことである。具体的には、次の3つが柱となる。

(1)神戸空港国際化と一層の規制緩和

 神戸空港は2030年をめどに定期国際線が就航することになる。今後、中国、韓国、インド、インドネシア、タイ、ベトナムシンガポール、オーストラリア、ロシアなど、世界各国に路線網を構築すべきである。そしてさらに制限を緩和し、機能を拡張し、真の意味の「関西国際空港」の地位を不動のものとしなければならない。

 

(2)湾岸高速道路網の早期完成と長距離バス路線網の構築

 神戸を迂回する中国縦貫自動車道、山陽自動車道に代わる、神戸を経由する高速道路の早期実現が必要である。そして、全国各地とを結ぶ長距離バス路線網を構築するべきだ。

 

(※ 大阪湾岸道路の必要性についての資料)

大阪湾岸道路西伸部 (mlit.go.jp)

 

(3)交通結節点の強化

 新幹線が、在来交通と隔たった位置にある新神戸駅と神戸の都心、さらには神戸空港とを結びつけ、西日本の交通を束ねる巨大な交通結節点を作ることである。すなわち、新神戸ー三宮ー神戸空港のアクセス線の早期実現が必要である。この沿線上に、ビジネスセンターや集客施設文化施設を集中的に立地させ、自由に往来できる高度の機能性を持った都市空間を構築するべきだ。

 要するに、いかに、西日本最大の交通結節点を神戸の地に確立するかという視点で、知恵を絞らなければならない。この西日本最大の交通の結節点は、神戸の核心であり、生命線である。

 

 神戸を再び、西日本最大の交通拠点とする明確な目標をもって、営々と歩みを進めることが重要だ。こうした大構想を立て、それを弛むことなく着実に実現していくリーダーのリーダーシップが必要だ。

 

 交通の拠点は経済、文化の拠点でもある。経済、文化は交通に付いてくるものだ。決してその逆ではない。

 交通拠点の回復こそ、神戸が目指すべきものだ。これは不可能なのだろうか。これは、根も葉もないことではない。交通の拠点というのが、神戸の地理的条件から導かれる本来的な役割なのだ。先人は、その点に着目して、神戸の街を切り開いてきたのだ。

 

 

(神戸外国人居留地 過去の繁栄を偲ばせる大阪商船ビルと明石町筋の夜景)

 

(神戸海岸通 日本郵船ビル)