兵庫県の誕生 県立兵庫の津ミュージアム、グランドオープン

 11月24日、兵庫県の成り立ちや神戸港の源流である兵庫津の歩みを紹介する「ひょうごはじまり館」がオープンした。先行して開館した隣接の「初代県庁館」とともに、県立兵庫津ミュージアムとしてグランドオープンとなった。 

兵庫津ミュージアム (hyogo-no-tsu.jp)

 

 現在、企画展として、兵庫津ミュージアム開館記念展『ドキュメント1868-ひょうごはじまりの時-』の開催されている。

 その第一番目の展示は、兵庫県の成立を示す1通の書状である。

 

当地の儀は県に相成り、丸々大坂の支配を免がれ太政官の勅命を受くべく都合に相成り、則ち別紙御沙汰書、越前宰相殿より御渡しこれ有り候に付き、御代役相勤め受け取り申し候、右に付きては彼是拝請を得、申し上げざるは意味相分かり難く、いつれ明日は拝鳳万々御意を得るべく候

(伊藤俊介(後の伊藤博文)の慶応4年5月26日頃の書状)

 

 

 慶応4年5月23日(1868年7月17日)、兵庫県が誕生した。兵庫県は同年5月2日に成立していた大阪府から独立する形で成立した。上に掲げた記録は、伊藤俊介(後の伊藤博文)が東条慶二に充てた手紙の抜粋である。その中の「当地の儀は県に相成り、丸々大坂の支配を免がれ」とのくだりは、そのあたりの事情を表している。

 兵庫と大坂はどちらも旧国名の摂津の国にある。明治維新によって藩が廃止され府県が置かれたが、概ね旧国の範囲が府県に引き継がれており、複数の国が合わさって一つの府県を構成する例は多いが、一つの国が複数の府県に分割される例はあまりない。摂津の国は、分割された数少ない事例の一つである。上の文書を見ると「大坂の支配を免がれ」としており、あえて大坂から分離をすることを企てたのであることを伺わせる。

 あえて兵庫を大坂から分離させた理由は何なのだろうか。

 その理由を考える中で、当時の東京遷都に関する次の論文を見つけた。

明治元年1月には有名な大久保利通の大坂遷都論が出ます。大久保の遷都論はかなりの長文ですが、大坂にした方がいいという理由は地形が適当であると述べるにとどまっており、分量的にも全体の中のわずかで、取って付けたような印象があります。それにはわけがありまして、この時点で遷都の場所は大坂しか浮かばなかったのだろうと思います。それよりも大久保がいいたかったのはなぜ遷都しなければならないのかであり、それが文章の大部分を占めているわけです。大変革をするには遷都をしなければならない、京都では改革はできないというせっぱ詰まった考えがあったものと思います。当時の天皇はほとんど外にも出なかったので、外国のように民衆の前に積極的に出ていくような皇帝のような存在になって欲しいという希望もあったようです。そのためには天皇を京都から連れ出す必要があったということです。遷都を機に大改革をするべきであるということが大久保利通の遷都意見の主要な点なのです

 

(佐々木 克「首都機能移転問題と「東京遷都」」)

 

 明治政府は、旧来の日本からの大変革を行うことを使命としていた。その中で、京都では改革は難しいという認識が政府の中にあり、一時は大坂遷都も検討されたものの、結局は実現せず、最終的に東京遷都となったという歴史的な事実が大きなヒントになるのではないだろうか。明治政府は、近代国家日本を創建するという大変革を行うことを使命としていた。しかし、京都や大坂に政府を置いては実現が難しいと考えたが故に、あえて東京に遷都をしたのである。その大変革を行うことが難しいという京都や大坂の一部に、開港地に選ばれ、世界の窓口として開発しようと考えていた兵庫、神戸を組み入れ、大坂の支配に委ねることは妥当だろうか。そのように考えたからこそ、兵庫を大坂から分離し、独立の府県として置いたのではないだろうか。つまり、兵庫、神戸は明治政府の大変革の拠点とすべく選ばれた土地なのだ。その初代知事に、幕末に英国留学経験がある伊藤俊介(後の初代内閣総理大臣 伊藤博文)が選ばれたことは象徴的だと考えられる。また同時に、この歴史的経緯に、兵庫、神戸と大阪(大坂)との、切っても切れない深い因縁を感じざるを得ない。

 そうした役割を担う兵庫県は、数次の合併を経て、明治9年に、瀬戸内から日本海側まで本州を縦断するほぼ現在の県域となる。

 

 兵庫県の成立過程について紹介しています。
 土佐国一国が高知県になった例もあるのに、兵庫県が播磨・但馬・淡路と、丹波・摂津の一部を加えた、五か国にまたがる大きな県になったのはなぜでしょうか。

(略)

 さらに、明治9年(1876)8月、飾磨県と豊岡・名東両県の一部が兵庫県に併合されて、ほぼ現在の県域が確定しました。これ以後を第3次兵庫県といいます。

 このような大きな県域になった理由については、次のようなことが言われています

 但馬の出身で、内務卿大久保利通のもとで地租改正に従事し、その後、県知事や内務省の局長などを歴任した櫻井勉という人がいました。
 櫻井は、府県統合に際し、大久保から豊岡県と鳥取県の統合に関して意見を求められたそうです。櫻井は、「豊岡・鳥取両県は歴史的に関係が深いが、両県を往来する山間部の交通が不便です。かといって兵庫県と統合すると、面積が大きすぎます。豊岡県は、飾磨県と併合するのが良いと思います。」と述べますが、大久保から、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ。」と言われ、第3次兵庫県の原案を考え出しました。

 

兵庫県HP「県域の変遷」より抜粋)

 

 その後、明治22年に神戸は東海道本線の終着駅として東京新橋からの鉄道が開通し、明治28年には山陽本線の起点ともなり、神戸港は東洋一の国際貿易港として発展した。

 このように見てみると、明治政府の意図はより明瞭に読み取ることができるように思われる。すなわち、明治政府は、江戸時代の我が国の交通、経済の中心地である京都、大坂ではなく、その真西にあたる現在の兵庫県の地に、西日本の交通を束ねる兵庫県を置き、その県都として神戸を開発したのだ。つまり、東京という新しい首都を置き、その西の橋頭保として兵庫県、神戸を置いて、西日本全体を統治しようとしたのだ。その意図は、日本海から明石海峡、淡路島、鳴門海峡まで、兵庫県を通過しなければ東西の往来ができないという、本州を縦貫する兵庫県の形に表れている。それは、おそらく、明治10年に勃発する西南戦争に続く国内情勢も背景にあったものと思われる。

 上記のように考えるならば、兵庫県は他の府県とは異なる特異な県であるとも思われる。東京を首都とする近代日本という国家の中で、西の拠点として選ばれたのが兵庫、神戸だったのだ。