摂州神戸海岸繁栄之図

 

 「摂州神戸海岸繁栄之図」は、大阪の浮世絵師、長谷川小信(このぶ)(1848-1941)による浮世絵画である。明治4年(1871年)の作とされている。

 市営地下鉄三宮駅構内の壁画にもなっているので、見覚えのある人もあるだろう。

 この絵の詳細な画像を、神戸市立博物館のHPから館内収蔵コレクションとして見ることができる。

 

摂州神戸海岸繁栄之図 - 神戸市立博物館 (kobecitymuseum.jp)

 

 一見して、色使いが鮮やかでとても美しい。そのタイトルのとおり、非常に賑わい、活況を呈している港の姿がいきいきと描かれている。

 浮世絵なので、写真ほどには細密ではないが、よくよく見てみると、案外に写実的で描写が細かく、様々なことがわかる。

 まず、全体の構図は、現在のメリケンパーク、ハーバーランドあたりから東側を見渡した神戸港の風景で、右手が浜側で、左手が山側となる。手前から奥に向かって陸地が緩やかな湾曲を描き、それが囲む内側に海が広がり、背後には屏風のような六甲連山の山々が連なっている。山の頂には名札が付され、左手から摩耶山、六甲山、有馬、岡本、甲山などの名前が読み取れる。

 山々を背景に、海岸線に沿うようにコロニアルスタイルの洋館がずらりと並んでいる。その中に、外国の領事館であろうか、オランダやイギリスの国旗が掲揚されているのが見える。

 海岸線の中央部に突堤が見え、メリケン波止場と思われる。その基部には、日の丸に紺色の横一文字が入った旗が掲げられた奉行所風の建物が見える。兵庫運上所の建物だろうか。現在の海岸通りの神戸合同庁舎の敷地の西南角に「神戸税関発祥の地」の石碑が立てられており、ここに神戸運上所があったことがわかっている。それは、絵の中では旭日旗が掲揚されているところに当たるだろうか。

 そのさらに右手を見ると、黒い屋根の上に「傳信機(?)」の名前がある。日本で電信が実用に使用されるようになったのは 明治2年(1869)の東京横浜間が最初で、その翌年の明治3年(1870年)に大阪神戸間に電信が開通した。現在、京橋の「神戸海軍操練所」の石碑の横に「神戸電信発祥の地」の石碑がある。明治維新鳥羽伏見の戦いは慶応4年1月(1868年)のことだが、1871年6月には上海長崎間の国際海底ケーブルが敷設され、1872年1月にはロンドン長崎間の国際電信サービスが始まっている。鳥羽伏見の戦いからわずか4年、現代では考えられないスピードだ。この絵は明治4年(1871年)の作だから、まだ国際通信は始まっていなかったかもしれない。

 海岸線に沿って街灯が並んでいるのが見える。日本で最初に西洋式ガス灯が灯されたのは1871年(明治4年)、大阪の造幣局周辺といわれている(Wikipedia「ガス灯」)ので、この絵の制作年代から考えると、石油ランプと思われる。

 海に目を転じると、何隻もの蒸気船が穏やかな湾内を波を蹴立てて進む様子が見え、船上には西洋人や弁髪を結った清国人らしき姿が見て取れる。その進む脇には、洋式の大型帆船や、大小の和船が停泊している。手前右手の和船はかなり大型のいわゆる千石船で、船上を檜垣で囲んだ内側に荷物を高く積み上げている。沖合には、何隻かの西洋の帆船が停泊している。また、和船の帆も見える。

 陸上部には、多くの人が行き来している姿が見える。にぎやかな様子は、まるでお祭りの雑踏のようだ。ステッキを持ち帽子をかぶった西洋の男性、日傘をさした西洋の女性、その脇には親子であろうか洋装の童女の姿も見える。遙か本国から遠く、当時必ずしも安全ともいいかねる航海を経て、まだ政情も安定しているとはいえない極東の日本に家族で渡ってきたのだろうか。

 一方、髷を結って笠を手にした日本人の旅人の姿も見える。この当時の日本人は洋装ではなく、皆まだ髷を結っていたようだ。遠方から大勢の人々が集まっていたのだろう。こちらも、女性を同伴しており、物見遊山風だ。歩く人々は、街灯を見上げたり、興味深そうに、あちらこちらと周囲の様子を眺める様子がよくわかる。日本の商人らしき人物が、子供をお供に、西洋人の家族となにやら話しをしている。弁髪の清国人も大勢見える。

 案外、女性の姿が多く、幼児を背負って歩く姿まで見える。幕末には攘夷運動が盛んで、外国人を恐れる風潮もあり、外国人への襲撃事件もあったと聞くが、やや意外の感がある。

 自転車に乗った西洋人、手押し車を押す者、人力車を引っ張る者、馬車を操る者、馬に乗って連れだって進む者、荷造りをする者、その脇で帳簿を持って清国人と話をしている者、荷物を載せた馬を引く者、実に多くの人々が港を囲み、行き交っている。

 新たに開かれた神戸港を中心に、世界中、日本中から大勢の人々が集まり、交流をしている、この絵はまさにその瞬間を描いたものだ。そして、これこそが、神戸の創成時の姿である。絵師は、その姿をいきいきと描きとっている。

 

 それから150年以上たった現在、港の姿や役割は大きく変わった。しかし、世界中、日本中から多くの人たちが集まり、出会い、新たな文化を生み出していく港。時代が変わっても、いつまでも、このような賑わう神戸であってほしい。ここに神戸という都市の原点と理想がある。神戸の人々は、この絵を見ることにより往事の繁栄する姿を偲び、思いを新たにするだろう。そして、また繁栄する神戸を未来の人々に託していくだろう。