富とは何か(4)

 「身を切る改革」と聞けば、自らを犠牲にして苦難に立ち向かうリーダーの姿がイメージされるのか、人々の支持を集めがちだ。

 なぜ身を切るのかというと、財政が赤字で、その財政赤字を少しでも減らそうという発想だろう。それによって、自分たちの負担が少しでも減り、生活が改善するのではないかという期待が人々の心をつかむのだろう。

 「身を切る」とは、具体的にどういうことだろうか。「公務員叩き」はその典型な例だろう。公務員の賃金を抑制するとどうなるかを考えてみると、賃金が削減された公務員は受け取る貨幣が減るから、その分、日々の支出を減らすことになるだろう。そうなると、その分有効需要が減るので、財やサービスの生産は減るだろう。それにとどまらず、財やサービスを生産する人々が受け取る貨幣も減少するから、それは巡り巡って、賃金を削減した以上に生産が減る結果をもたらす(乗数効果)だろう。世の中全体の財やサービスの生産が減って、人々が豊かになる結果がもたらされるだろうか。そんなことは常識的にあり得ないだろう。

 1990年代以降、経済が不調になるに伴い、様々な犯人捜しが横行し始めた。物価が高いのは、農家が既得権者として農産物の自由化に反対するからだ、流通が自由化されていないからだ、タクシーは参入が規制されているからだ、公共工事が多すぎるからだ、公務員の厚遇が我々が貧しくなる原因だ、生活保護制度が問題だ・・・。そのたびごとに、改革が実行され、標的となった産業・分野は自由化され、それらに従事する人々の待遇、労働条件が切り下げられ、人々の手に渡る貨幣の減少が発生した。このようなことが繰り返されるうちに、人々の手に貨幣が供給されるチャンネルが次第に失われていき、結果的に、国民全体が手にする貨幣が減少し、貨幣は企業に貯蔵されてしまうことになった。他人の蛇口を閉めることは、自らの蛇口を閉めることと同じことだ。川上が干上がれば川下も干上がるのだ。

 その間、所得税累進課税は緩和され、物品税は廃止され、消費税が10%になりと、国民に貨幣が行き渡りにくくなる結果をもたらす政策が取られ続けた。

 このようなことを30年間続けるから、失われた30年が発生したと考えられる。その結果、国民はすっかり貧しくなり、30年前には「金満日本人」と言われ、物価の安い海外でブランド品を買いあさった日本人が、今では逆に物価が安い夢の国として、海外から多くの人々が訪れる国となってしまった。

 「身を切る改革」とは、結局は、誰かがたくさん受け取っているから自分が貧しいという発想で、経済の不振の原因を特定のグループへ矛先を向けることであり、問題の解決にならないどころか、さらなる悪循環を生むものである。経済の不振の原因は明白で、国民に生活に必要な財やサービスを手に入れるために必要な貨幣が行き渡っていないからだ。こうした中でも、政府やマスコミは、財政危機や年金不安など、不安をあおり、さらなる増税を主張し、人々が一層貨幣の備蓄に励まざるを得ない状況を招いている。

 ここで、我々が決意するべきことは、社会の成員は運命共同体であり、共に助け合う仲間であると理解することだ。誰かを攻撃して社会が豊かになることなどあり得ない。現在生じている問題は、全体の状況がよくなれば、自然と緩和され、解消されるだろう。人々は争うのではなく、互いに尊重し協力しあうことが大切だ。

 そして、政策の決定権のある者に対して、財政のバランスを重視して、国民の生活の実態を考慮せず、国民から貨幣を回収することばかり考える現在の政策の変更を求める必要がある。国民が生活するために必要な貨幣を十分供給し、我が国が保持する生産力を十分活用して、財やサービスが生産能力一杯に生産され、国民の手に渡るようにすることだ。そうすれば、国民は十分な財やサービスを享受でき、豊かな社会が実現するだろう。