兵庫県知事に対する内部告発問題について、兵庫県議会は百条委員会の報告書の中で、「文書には一定の事実が含まれていたことが認められた」として、斎藤知事の一連の対応については「大きな問題があったと断ぜざるを得ない。」と結論づけた。
対して斉藤知事は、これを単なる「一つの意見」と評し、これまでの対応は適切であったと繰り返し、自らの意見を変える様子は全く見せていない。一方、斉藤知事を擁護する人々は、そもそも百条委員会が公正性を欠いた結論ありきの「茶番」であると、その価値をおとしめる言説を展開している。
3月19日には第三者委員会による調査報告が提出され、告発文書に記載された言動の多くを「パワハラに当たる」と認定し、告発者を特定した県の対応は公益通報者保護法に違反するとした。これに対しても斎藤知事は、一連の対応は適切であったと、一向に考えを変える気配がない。斎藤知事の擁護派は、第三者委員会の構成委員の中立性に問題があると難癖をつけ、結論ありきのデタラメであるとの論説を展開している。
最近気になることは、斉藤知事の記者会見に応じる態度の変化である。問題発覚当初は、おどおどした態度で、いかにも何かを隠蔽しようとするかのようであった。これは、周囲が指摘する事項について本人も問題があることを自覚しており、その共通の理解に立脚しながらも、自分の立場をいかに正当化するかに四苦八苦しているように見えた。ところが、近時の記者会見では、尊大な姿勢で記者を睥睨(へいげい)し、威圧するかのような態度を見せている。いわゆる「逆ギレ」の状態である。
「逆ギレ」
相手に損害や迷惑を与えており、その点で責めを受けてしかるべき者が、自分が責められることに対する怒りを露わにし、あたかも自分が不当に責められている被害者であるかのように振る舞うさま。キレられる側の者が逆にキレるさま。
(出展 「実用日本語表現辞典」)
3月5日の会見では、告発者について「極めて不適切なわいせつな文書を作成していた」と述べて、怒りの表情とともに記者に対して攻撃的な態度を示した。従来は、知事の支援者周辺からそういった表現がなされることはあったものの、斉藤知事は「業務と関係のない私的な文書を作成した」と説明しており、知事本人がそのような言葉を使ったことはなかった。斉藤知事は、昨年11月の出直し選挙後、自らの見解に揺るぎない自信を持つようになり、周囲の現実と著しい乖離が生じるようになってきた。
これらの状況は、何を示唆しているのであろうか。
ここからは仮説である。
斎藤知事の周辺に、一般の社会の価値感と異なる人々が集まり始めている。斎藤元彦氏自身にもともと、そうした傾向があったのかどうかはわからないが、そうした集団が、知事の不信任、出直し選挙の過程を経て、周囲を囲むようになった。そして、それ以外の一般の価値観を有する人々は、その周囲から遠ざかるようになったと考えられる。
その集団は、一般の社会の価値規範と異なる価値観を有し、外部に対する強い敵意を持ち、自分達に都合の悪い主張に対しては、それらは自分達への攻撃とみなし、これを受け入れることは自分たちの堕落と捉え、決して受け入れてはならないものだと位置づける。その結果、それらの主張のすべてが受け入れられることなく排除されてしまう。とどのつまり、周囲との和解、融和、調和の途が閉ざされ、同質性が一層強まる結果となり、ますます孤立し、結束を強めていく。
そうしたプロセスが一定の段階に達すると、「仮想の現実」が彼らの間に生まれ、自らの行動に疑いを持たなくなり、いよいよ確信を強めさせる結果となる。仮想現実に入ってしまうと、社会の価値感との乖離が生じても決して修復されることなく、時間が経つほどにその乖離が拡大していく。社会の価値感との乖離の拡大の行きつく先として、法律からの逸脱も生じていく。法律からの逸脱が生じると、法律自体に対する尊重の観念が失われていく。
こうした集団は「カルト(狂信的宗教集団)」の一種と見ることができるのではないか。
カルト
〘 名詞 〙 ( [英語]cult)① 祭礼儀式。
② ある人、事物に対する熱狂的崇拝。また、そのような人々の集団。特に、少数で組織される狂信的宗教集団。転じて、邪教の意でも用いられる。
(出典 「精選版 日本国語大辞典」)
兵庫県知事の周辺にカルト集団が参集しはじめ、あらゆる批判に対して一般の常識から外れた言説による防壁が築かれ始めている。その内部に、彼らだけに通用する事実認識に満たされた仮想現実ができはじめている。
兵庫県議会最終日の26日、斎藤知事が姿を見せると詰めかけた傍聴人から拍手と歓声が沸き、議場は異様な雰囲気に包まれました。
「がんばれ」などの声援も上がり、議長が挨拶するまでの約3分間、静かになることがありませんでした。(略)
第三者委員会は19日、10件のパワハラを認定し、県の対応も公益通報者保護法違反だとする報告書を提出していました。
議会では報告書に言及したもののこれまでと変わらないコメントにとどまり、そのまま本会議は閉会しました。斎藤知事が議場から出ると、多くの支持者が待ち構えていました。
(支持者)「お疲れ様でした!」、「ありがとうねぇ~」
斎藤知事はしばらく立ち止まって手を振るなどしてこれに応じていました。
(ABCニュース 2025/3/26)
斎藤元彦兵庫県知事の疑惑告発文書問題で、県の第三者委員会が19日に調査報告書を公表したことを受け、片山安孝元副知事は27日、代理人を通じコメントを発表した。「(第三者委が)丁寧に対応されていることに敬意を表したい」としながらも、調査結果に対しては「公益通報者保護法関係などについての判断には疑問がある」などと訴えた。
(片山氏はコメントで、)(中略)第三者委が元局長に「不正の目的はない」と判断したことには、「文書が不正な目的なものであるか否かを判断するには、元局長が使用していた公用パソコン内文書を十分に分析し、どのような過程を経て作成されるに至ったのかを詳細に認定していく必要がある」と主張。「私が確認している元局長のメールのやり取りでは明らかに斎藤知事らの失脚を企図していたことがうかがえる」と持論を展開した。
(産経新聞 2025/3/27)
斎藤元彦氏やそれを支援する人々の言動を見ると、その疑いが強く感じられる。もはや、一般社会と共通の言葉や価値観は失われ、言論による問題の解決は不可能となってしまっているように思われる。
兵庫県の問題について、社会の側がいくら違法を訴えても、彼らの都合のよいように法律は曲解され、法律の議論以前に、相手方の「攻撃」の意図に基づくものとして、ブロックされてしまう。そもそも、法律に対する尊重の観念が破壊されているので、法律が無効化されている。
このブロックする作用を果たすものとして、「免疫不全」をもたらすようなしくみが構築されているのではないか。それは、法律や社会に対する価値や信頼の破壊である。社会を体系化する価値や信頼が破壊されることにより、かれらの特異な事実認識が修正されることを阻止してしまうのだ。
今回の問題でも、兵庫県議会や百条委員会、第三者委員会、兵庫県警などに対して、陰謀論的な解釈が振りまかれている。常識的な社会人からみれば、まったく荒唐無稽で取るに足らない言説であるが、これらが、一連の兵庫県の問題を通じて、社会全体に急速に広がっているように思われる。もしも、これらが社会全体に蔓延してしまえば、社会は崩壊に至るだろう。
今般の状況を見ると、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(Dawn of the Dead)という映画を思い出す。いわゆる「ゾンビ」映画である。
ゾンビは、通常の生命と異なる原理で動き、意思疎通が不能で、理解不可能に人々を襲う。襲われた者は伝染して、同様に人を襲い始める。彼らを倒そうと、銃を何発撃とうが決して倒れない。彼らはその数を急速に増加させ、みるみる地上を覆いつくしていく。生き残った人々は懸命に戦うが、多勢に無勢で、怒涛のように押し寄せる彼らに飲み込まれてしまう。
兵庫県知事の問題を、当初、「おねだり・パワハラ」として、人々は興味本位に取り上げた。単なる奇矯なキャラクターの問題として取り上げられ、中には、一生懸命やっている、いじめられている、不器用だと、同情をもって解釈する者もあったが、それは問題を矮小化しすぎている。すでに複数の人(彼らは社会平均から見れば極めて強靭な人々のはずである)が絶命している。その矛先が、いつ我々に向かわないとも限らない。
兵庫県知事の周囲に、カルト集団が入り込み始めているのではないか。社会の価値観から乖離し、仮想現実に浸った、法律を遵守する考えのない者たちが、公権力行使の場に入り込むのは本当に恐ろしいことだ。また、いったん入り込むと、条理では説得できず、増殖のメカニズムにより拡大していく。時間がたてばたつほど、さらに、そうした傾向を持つ者が集まり、増殖していくおそれがある。そして、ますます治癒が困難となっていく。まるで人間の体内で増殖するがん細胞のようだ。できるかぎり早期の対応、患部の摘除が必要だ。