貨幣は富ではない。生産能力の大きさとそこから生み出される財やサービスこそが富である。現下の経済問題の原因は、生産能力が足りないことではない。それを十分に稼働させず、財やサービスが十分生み出されないことが問題なのだ。その原因は、需要があるところに必要な貨幣が行き渡っていないことにある。政府は、財政のバランスを指標に考えるのではなく、国内の財やサービスが本来の能力だけ産出される状態を保つことを第一義的な目的として政策を行うべきだ。貨幣は単なる「紙切れ」、等価での交換を求める「権利証」にすぎないのだから、政府は必要な量を発行すればよいのだ。貨幣の量が過剰になった時は、税によって回収をすることができる。
貨幣は実に不思議なものだ。例えば、政府が中央銀行に国債を引き受けさせ、貨幣を手に入れたとする。その時点では、単に帳簿上の資産にしかすぎない。そして、その貨幣を用いて財やサービスを購入することによって、実際に世の中に、それまで存在していなかった財やサービスが発生する。その貨幣発行のコストは事実上ゼロ(紙幣の印刷代ぐらい)で政府は財やサービスを調達することができる。その財やサービス提供の対価は、別の誰かが財やサービスを提供してくれることによって賄われる。
つまり、こういうことだ。「貨幣を持つ者から請求があれば、等価の財を提供してください。その代償は好きなときに誰かに請求して受け取ってください。」これが、貨幣の機能だ。貨幣は、その権利を表す証票にすぎない。
現在の政策の誤りは、貨幣そのものを富だと考えることだろう。現代の貨幣は、所持する者に購買権を与える証票にすぎない。経済活動を財やサービスの生産、提供、消費と考えるならば別の姿が見えてくる。財やサービスを実体とすると、貨幣はその影のようなもので、影を実体と見る倒錯が現在の政策の誤りを生み出している。
貨幣は、発行者が最終的な価値を保証するものではない。「この証票を持つものに対して等価で商品を提供してください。その代価は好きなときに誰かからもらうことができます。」ということに過ぎない。つまり、裏付けのない需要に対して保証を与えて有効需要とすることが貨幣の役割だ。ではその最終的な負担者は誰なのか?貨幣が循環している間は誰の負担でもない。最後に貨幣を受け取って、それを使用せずにストックする者、つまり自らは商品を提供して、誰からも商品を受け取らなかった者が最終負担者となる。貨幣は富ではないから当然の結論だ。そのように考えるならば、一番の金持ちは、一番得るものが少なかった者だ。(その使用されなかった貨幣は、不要不急の貨幣として政府が税で回収しても本来差し支えないだろう。しかし、増税は社会的な軋轢を生み出しがちなので、急いでやる必要はないだろう。)
社会現象は人の手によって解決できるはずだ。自然現象のように避けられないものではない。年々厳しくなる状況を当然のこととして受け入れる諦観が社会に蔓延している。十分な生産能力を持ちながら、一向に豊かさを享受できず、年々生活が厳しくなっていくと感じるのは、実におかしな話だ。政策の決定に携わる者は、こうしたことを十分に考えるべきだ。国民に対して「厳しい、厳しい」とばかり言うのではなく、本当にこの厳しさが必要なことなのかよく考え、政策の決定者に意見すべきだ。
この姿は、やはり戦前の姿とよく似ている。日本が戦争に奔走したのは、列強の植民地化の危険を脱した後だ。植民地化の危険がなくなったのにも関わらず、国民は戦争にかり出され、塗炭の苦しみを味わい続けた。現在は、高度成長を経て、貧困を脱し、豊かな生産力を持った社会となった後に、経済的不足に見舞われている。だれもが豊かな生活を送ることができる条件が整っているにも関わらず、国民は豊かさを感じることができず、貧困さえ広がっている。そこに、相似形を見いだすことができる。