兵庫県知事、告発対応「適切」、暴走する兵庫県政

 兵庫県の斎藤元彦知事は26日、疑惑告発文書問題を巡る県の対応を公益通報者保護法違反と指摘し、職員へのパワハラも認定した第三者委員会の報告書を受け記者会見し、自身の行為がパワハラに当たると初めて認め、「不快な思いをさせた職員に謝罪したい」と述べた。一方、文書については「誹謗(ひぼう)中傷性が高いという認識には変わりなく、適切な対応だった」と従来の主張を維持し、告発者に対する処分の撤回も否定した

 会見では、第三者委の認定を「真摯(しんし)に受け止める」と繰り返したが、パワハラの見解は改めた一方、保護法違反の指摘には「専門家の間でも意見が分かれている」と耳を貸さなかった

 パワハラを認めたことを踏まえ、自身の処分についての考えを問われたが「研修などを受けながら、襟を正して県政を進めていくことが自分なりの身の処し方だ」と述べるにとどめ、明言しなかった。

 

(以下略)

 

産経新聞 2025/3/26)

 

 

 3月19日に公表された斉藤兵庫県知事に対する内部告発問題に関する第三者委員会の調査報告書について、斉藤知事は26日に記者会見を開いた。パワハラ行為については自らも認めて謝罪をしたが、告発文書への対応は公益通報者保護法違反に当たるとの指摘については認めず、一連の対応は適切であったとの従来の考え方を繰り返し、告発者に対する処分の撤回も拒否した。

 

 斉藤知事の一連の対応が違法であったことは、今回の第三者委員会の指摘を待つまでもなく、明らかである。県議会の百条委員会でも、複数の専門家が違法であることを明らかにしている。斉藤知事は、保護法の解釈については「専門家の間でも意見が分かれている」と述べるが、そのような状況は存在しない。今回の第三者委員会は「だめ押し」ともいうべきもので、すでに議論の決しているところであるが、複数の元裁判官等の法律の専門家が議論を整理したものといえるだろう。

 斉藤知事が、もしも態度を改めるのであれば、今回が最後のチャンスであったであろう。しかし、斉藤知事は、このチャンスを踏みにじった。

 斉藤知事は、パワハラ行為をようやく認めたものの、口頭で謝罪するのみで、自らへのペナルティは一切なく、「お咎めなし」とした。一方、公益通報者保護法違反については一切認めず、従来の根拠不明の見解を繰り返し、告発者である元県民局長に対する懲戒処分も「適切に進めた」と述べ、撤回の考えはないとした。

 

 斉藤知事の発言には驚くばかりである。兵庫県は「違法」を犯し、その「違法状態」が修正されることなく継続することとなってしまった。今回の斉藤知事の発言は、兵庫県政が法律に従わないということを示した「違法宣言」に等しく、兵庫県が「無法状態」におかれていることを満天下に示したということになる。

 「法律による行政」という言葉を持ち出すまでもなく、法律に従うことは、一般社会人はもとより、子供でもわかることだ。なぜ法律に従わなければならないのか改めて問われると、逆に説明に窮してしまうほど、喩えるなら「なぜ地球は丸いのか」と聞かれて一瞬答えに窮するのと同じくらい、当然の理屈である。

 

「法律による行政」

 行政は法律に基づき,かつ法律に違反してはならないという原理。近代的・現代的法治国家行政法の分野におけるもっとも基本的な原理であって,刑法の分野における罪刑法定主義に対応するものである。

 〈法治行政の原理〉または〈行政法における法治主義〉ともいう。

(以下略)

 

(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

 

 そもそも、国や地方公共団体は、法律を行い、国民に法律を守らせるために存在するものと行ってもよい。それを、地方政府である兵庫県が、白昼堂々と違法状態を継続し、修正しようともしない。そして、当面、これを是正させることができない状態に兵庫県民は立たされている。

 これは、まったく、恐ろしいことである。

 一般県民はもとより、県庁職員は、日頃から、大なり小なり、法律を前提に、法律を解釈しながら日々の活動を行っている。自らが法律に従うだけではなく、他者も法律に従って行動することを当然の前提として活動している。だからこそ、人々は、法律をことさら意識することなく、言うならば「空気」のように、その存在を意識することなく「自由」に行動して、社会生活を営んでいる。

 しかし、ここに法律に従わない者が存在している。その者は、通常人を遙かに超える強大な権限を有している「県知事」である。その者が、社会一般に常識である解釈に従わず、あらゆる専門家、所轄官庁が正しい解釈を説明しても、自分の考えと異なると、誰もが理解しえない異様な解釈により、法律の趣旨に反する「違法」な行動を取り続ける。そして、その行動をただすのは、「司法の判断」が下される時だと嘯(うそぶ)く。それでは、司法の判断が下されるまでは、法律の解釈は自分の自由にして構わないということになってしまう。しかも、他者にはペナルティを与えるが、自分は与えられないという、論理的破綻ぶりだ。

 その恐ろしさは、高速道路を逆走する大型トレーラーに喩えられるだろう。

 こうした原理がまかり通る世界は、もはや「無法地帯」というべきだ。もし、この無法地帯で、通常の人々が、これまでどおりに法律に従って行動しようとすれば、必ず、様々な衝突が生じるだろう。通常の人々はこれに耐えられるのだろうか。これを放置すれば、さらなる被害者が生まれてしまうに違いない。一刻も早くこのような無法状態を解消しなければならない。