富とは何か(1)

「富」とは何だろうか。国語辞典で調べると、次のように書かれている。 

とみ【富】
1 集めた財貨。財産。「巨万の富を築く」

2 経済的に価値のあるもの。資源。「自然界の富」

3 「富籤(とみくじ)」の略。

デジタル大辞泉

  

 これによると、富とは、集めた財貨、つまり、金や銀などの財宝、貨幣などが、そのイメージに近いかもしれない。

 金や銀は富の代表的存在ではあるが、金や銀だけでは人間は生活を維持することができない。ギリシア神話のミダス王の物語にもあるように、手に触れるものがすべて金に変わってしまうとすれば、たちまちその人は破滅を迎えざるを得ない。だから、生活をするために本当に大事なものは、食料や衣服、家具、その他の日用品であって、金や銀ではない。もちろん、金や銀はそれ自体で食器や装飾品、工芸品となって物質的な使用価値がないわけではないが、それだけでは生活を維持することはできない。しかし、それでも人々が血眼になって手に入れようとするのは、それらが有する交換価値のためである。金や銀があれば、いつでも、どこでも、誰からでも、自分の求める品物を手に入れることができる。その交換価値としての性能が極めて高いため、人々は金や銀を求めるのである。金や銀を保有することは、生活に必要な財を保有することと同等なのだ。

 では、金や銀にどうしてそのような属性があるかというと、金や銀は、腐ったり、品質が劣化したりせずに価値を保持し続け、かつ希少性があるので、価値を蓄えるのに都合がよかったからだと考えられる。

 金や銀の価値の永続性に対するものは、その他の財の非永続性である。金や銀が価値を永遠に保つのに対して一般的な財は、価値がいつかは消滅する。だから、金や銀を手に入れた者は、自分にとって必要な財を手に入れてしまうと、必然的に余ったものは蓄えようという傾向が生じることになる。金や銀が富の代名詞になっているのは、このためであろう。

  

 金や銀の預かり証として始まった紙幣は、金や銀と交換できる「兌換紙幣」の時代を経て、金や銀と交換ができない「不換紙幣」となった。紙幣は使用価値を一切持たない「紙切れ」にすぎない。しかし、それは政府により交換(流通)を保証された紙切れだ。不換紙幣は銀行による金や銀への交換ではなく、その価額で一般の商品との交換が保証されていることによって価値が保たれている。人々が貨幣を交換手段として認め、貨幣に対してその価額と等価の商品が提供されるから貨幣の価値が保たれている。つまり、貨幣の価値を保証するものは、それと等価で交換される財やサービスだ。

 貨幣そのものは紙切れにすぎず、何の使用価値もなく、この紙切れ自体が富でないのは明らかだ。現代ではさらに、貨幣は物体としての姿すら有さない、電子情報となっている。このように物体としての姿を有さないことによって、貨幣は物質的な劣化から完全に自由になった。

 これを整理すると次のようである。その昔は、自らが保有する財が金や銀という商品と交換された。現在では、金や銀という商品を直接入手するのではなく、単に、今後別の等価の財に交換が可能な貨幣を手に入れるだけだ。その貨幣そのものは紙切れにしかすぎない。その貨幣は、言わば、等価で財と交換することを保証された「権利証」のようなものだ。

 以上のように、貨幣はそれ自体が富ではなく、それが交換されることによって入手される財やサービスこそが富なのだということがわかる。その富を生み出すものは、生産手段と労働力と資源だ。では、社会に財やサービスを産み出す媒介となるものは何だろうか。それは貨幣である。人々がどれだけその財やサービスを求めていたとしても、彼らの手に貨幣がなければ、その需要は社会的に承認を受けた需要と認められない。貨幣こそが人々の需要を生産者に伝達するものだ。貨幣を伴った需要が生産者に伝えられることによって、それに応える財やサービスが生産され、社会に現れる。

 通常、我々は、貨幣こそ富だと考えるが、実は、貨幣が媒介して社会に現れる財やサービスこそが富である。そして、国内でどれだけの財やサービスが産出されたかという統計の数値がGDPである。GDPは一国の豊かさを表す指標として用いられる。そして一人あたりのGDPは国民の豊かさを示す指標と理解されている。

 ここで重要なことは、富とは、天から与えられるものではなく、人が作り出すもの、作り出せるものだということだ。

 豊かな国である条件は、できるだけ多くの財やサービスが提供できる生産能力を保有すること、そして、実際にそれを用いて財やサービスが生産されることである。そのために必要なことは、人々の需要に貨幣の裏付けが与えられることである。この貨幣の裏付けのある需要が「有効需要」である。