作文行政の復活

 久元市長は、以前、「作文行政からの脱却」として、〇〇計画、○○プラン、**ビジョンというものが役所には多く存在することを挙げ、それらは机上の作業であり、このような、「作文行政」が本当に市民のための仕事になっているのかどうか大いに疑問がある、と指摘した。そして、計画策定の組織を廃止し、計画を簡素化あるいは改定を取りやめ、以後、「作文行政」からの脱却が、市役所の中に広がっていくようにしていきたいとの考えを示した。(2014.9.4 久元喜造ブログ)

 そもそも、「計画」を策定する意義としては、単に主観的な目標を示すだけのものではなく、現状を客観的、総合的に把握し、利用可能な人的物的資源を洗い出し、その上で合理的かつ理想的な目標を示すことにある。さらに、その計画が、行政だけでなく、市民や企業等の各主体に対しても活動の指針となって、それぞれが同じ方向に向かって進み、全体として理想的な状態を相乗的に実現していくという効果がある。

 計画策定作業は、一見、無駄な作業に思えるかもしれないが、その作業の過程で、計画というフォーマットをなぞることで、いずれも、現状の総合的・客観的把握、方向性の共有という点において一定の効果を果たしていたのだと思う。

 その一方で、神戸市が打ち出した「三宮将来ビジョン」には、現状の客観的把握という計画の基本的要素が欠けており、それを「計画」と見るならば致命的な欠陥だと思う。正しい現状の把握なくして正しい施策はない。

 神戸市が、本来、大都市に求められるレベルの施策が今なお打ち出せず、「村おこし」のような施策が生まれては消えていく現状は、この「作文行政からの脱却」と無縁ではないのではないかと懸念する。