フラットな社会

 組織の姿は時代とともに変化をしていく。

 従来、我が国の組織は、係や班などの小単位のユニットを課などのグループで束ね、さらにそれらを部などの大グループで束ね、それぞれのグループに長を置くという具合に、ピラミッド状に構成されていた。どうしてこのような形態をとるかというと、基本的には、情報伝達、指揮命令の必要上から、グループごとに長を定めて、伝達をするしかなかったからだと考えられる。

 しかし、現在では情報通信技術の発展により、一人一人にPCが割り当てられ、直接、その一人一人に対して情報伝達を行うことが可能となっている。

 情報通信技術の発展は、伝達の形態だけではなく、一人一人が直接にインターネットに接続して情報を入手することができ、多くの者が同時に、情報を取ることができるようになった。情報は書庫にあるのではなく、インターネットの空間に供給されるようになった。それは過去の情報量とは格段の巨大な情報量だ。こうした状況下では、一人の人物が情報を独占することはできないし、一人一人が主体的に情報にアクセスをする方が合理的であり、特定の人物を介して情報を取るようにすると、かえって情報の流れを妨げることになりかねない。

 加えて、個人が使用するPCの性能が格段に上がり、一人で大量の情報処理を行うことが可能になった。すなわち、一人一人が巨大な情報処理能力を持つことができるようになった。

 このような状況では、特定の人物に情報を持たせ、その人物の判断によりその配下の者が行動するよりも、一人一人に権限を分かち与え、それぞれが情報を入手し、情報を情報を処理する形態の方が総体としての情報処理能力が大きくなる。旧来のピラミッド型の組織と、全構成員が独自に情報処理をする新しい組織とが競争すれば、新しい組織の競争力は圧倒的に優れていると考えられる。新しい組織は、より多くの情報処理を行い、より大量に、より早く意思決定を行うことができる。様々な分野で競争が行われる社会にあって、ピラミッド型の組織は、新しい組織に淘汰され、置き換えられていくのは必然だろう。

 従来の我が国の社会は、ピラミッド型の組織を前提として、その内部での人間関係が構築されてきた。そこでは、組織は「疑似家族」として、祖父母、父母、子、孫のような人間関係が構築されてきた。しかし、新しい組織になると、構成員はほぼ同様の能力を持ち、それぞれが主体的に判断をするようになる。その関係において、親子のような上下関係は不要で、横並びの関係の方が適合的である。すでにそのような横並びの均質な組織の実態であるにもかかわらず、旧来の親子のような組織の関係は、すでに無用のものとなっている。親だから優れている、子だから劣っているという関係ではない。それぞれが権限を与えられ、その一人一人が合理的な意思決定を行っていく。そのような状況下で人々が旧来の疑似家族のような振る舞いを行うことが不整合となり、これが近年「パワハラ」としてクローズアップされる背景にあると考えられる。

 この組織と人間関係の不整合の解決策はどうあるべきなのだろうか。それは、結局は、実態に合わせて人間関係も再構築せざるを得ないと考えられる。すなわち、年齢やキャリア、役職にかかわらず、その実態にあわせて、上下関係ではなく、横並びの関係となることだ。つまりは「フラットな組織」だ。

 我が国の社会は上下関係を重んじる社会だ。日々多用される敬語やあらゆる場面で求められるビジネスマナーはその最たるものだ。これらの基本形態を、我々はどこで身につけているのだろうか。思うに、それは学校教育現場ではないかと思われる。振り返ってみると、小学校まではそれほどではないが、中学校に入ると、途端に先輩後輩の上下関係が求められるようになる。大人になってみると、たかだか1、2年の年齢の違いだけで、左様に上下関係を求めるのは不自然であるし、そうした上下関係は、大人になって逆転することは日常茶飯事であり、こうした教育方針は無用の軋轢やストレスを生む原因となり、現在の社会にとって害の方が大きいのではないだろうか。

 現在、高齢化社会を迎え、生涯における労働期間が延長する方向に動いており、定年延長やそれに伴う再雇用によって上下関係が逆転したりすることが当たり前にように生じる状況になっている。そうした環境下で、皆がよりストレス少なく働くためには、やはり上下関係をなくして、横並びの関係、優劣ではなく同等の役割分担の考え方に転換すべきだ。すなわちフラットな組織が必要だ。

 

 こうした社会の転換により組織形態の転換が行われることは、我が国においては明治維新の例が想起される。江戸時代の士農工商による身分制社会、家柄による上下関係が決定的な社会は、明治時代になり、四民平等の社会へ急激な転換を遂げた。その背景には、社会の工業化があり、多くの人々が共同作業、経済活動を行うのに、身分制による煩瑣な区分やしきたりが適合しなくなったためである。組織の典型ともいうべき軍隊においても、一人一人に高性能の銃器が与えられ、高い戦闘能力を有する時代になると、国民を均質なものとして大量に動員し、組織することが必要になり、その間に身分や家柄の区分を設け、武器を持てる身分とそうでない身分を分けることが不合理となった。それは、転換をしなければ、敗北が免れないという、冷徹な現実があった。

 

 現代の我が国も、かつては世界第2の経済大国として繁栄を誇ったが、現在は国際競争力が低下し、海外諸国との競争において劣勢を強いられている。その一つの要因として、海外諸国の意思決定の早さとそれに対する我が国の意思決定の遅さが指摘されている。海外諸国のビジネスマンは現場の担当者に全権が委ねられ、事案の進展に応じて即断即決をするという。対して我が国のビジネスマンは、現場が一番情報を持っているにも関わらず決定権を持っていないため本社に持ち帰り検討するということになり、社内で何段階もの説明、審査を経なければならず、その間に競合他国に出し抜かれてしまうというのだ。これも、我が国の社会が縦の上下関係で組織されているということが要因となっているように考えられる。

 あるべき姿としては、組織の各構成員のそれぞれが上下関係がなく一定の事業の単位で権限を分かち合い、その与えられた権限の範囲内でそれぞれが責任を持って行動し、意思決定をしていくということが必要となるだろう。すなわち分権化である。つまりは我が国の組織のあり方、それに伴う人間関係のあり方を根本的に改めることが必要となると考えられる。

 我が国の組織のこうした硬直性は、実は過去に比べて一層強まっている印象がある。戦後間もなくの我が国は、個人事業主同族経営で、小規模で、組織も未分化で、事業主のワンマンで、その分、意思決定は迅速であったと考えられる。しかし、次第に事業が拡大し、組織が肥大化してくると、多くの企業に官僚制がはびこるようになった。そうした組織は安定した時代にはそれなりに機能するが、現在のような流動的な社会には適合的とは言えない。そして、この20年ばかりに流行した我が国での「コンプライアンス運動」もこれらの傾向を助長することになったように思われる。コンプライアンス運動は、各個人の自由度、裁量を減らし、手続きを重んじ、何事においても、事前の協議や調整が必要となり、意思決定に時間と手間を要するようになった。また、事故防止と称して、何段階にもわたるチェックが行われている。すなわち、我が国の社会の緩さ、遊びの部分が失われ、そうした遊びの部分が果たしていた柔軟性・弾力性を失わしめ、組織的な硬直性が増進されることになった。我が国の組織の意思決定の遅さは、国民の性行ではなく、我が国社会の構造的な問題である。

 

 新しいフラットな社会の姿はどのようなものだろうか。それは相互に尊重しあう社会だ。旧来の社会は、下の立場の者が上の立場の者に対して一方的に頭を下げ、奉り、従属する非対称な関係であった。新しい社会は、両者が相手方を対等な者として尊重しあうのだ。現在でも見られるように、同じ組織の者同士が、上位の者に対して、著しく奉り、過度に待遇を厚くし、敬意を払うのは全く無駄なことであり、意思疎通の迅速化を妨げる原因にもなる。

 ある人は、社会の礼儀が失われてしまうのではないかと言うかもしれない。旧来の社会の礼儀は、下から上への礼儀は厳しいが、上から下への礼儀はおろそかにされ、ときには横暴とも見えることがあった。これらは、現在では「パワハラ」と認識されるようになりつつある。新しい社会は、この上から下への礼儀が意識されることになるだろう。

 


 時代の環境はすでに変化をしている。それに合わせた社会変化は、今後きわめて短い時間で訪れるだろう。それは、春の嵐が冬を一挙に吹き飛ばすのに似た姿だろう。

 

(この文章は2022年8月7日に投稿した「フラットな組織」に加筆をしたものである。)