大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と日本

 12月18日、今年度のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回「報いの時」が放映された。時代の大きな転換点となった「承久の乱」の顛末から、主人公、北条義時の最期まで、様々な登場人物の人間模様の決着が、テンポよく次々と展開され、緻密に構成され、様々に配されてきた伏線の数々に、一つの発言、一つの情景も目をそらすことができず、文字通り息を殺すように観た。そして、訪れたのは、壮大で、心に深い余韻を残す結末であった。

 「鎌倉殿の13人」は、その内容の緻密さ、豊富さの点で、おそらく、大河ドラマ史上の最高傑作であると思う。

 

 ドラマを見て感じたことは、現在の日本に、これだけの作品を作る人材がいるということだ。脚本の素晴らしさはもとより、まず、俳優陣が素晴らしい。普段テレビではあまり見ることのない俳優も多く出演していたが、いずれも聡明で感性に優れ、脚本から多くのものを読み取って、見事に人物像を表現している。その演者が互いにぶつかり合ってインスピレーションを与え合い、いよいよ迫真の豊かな演技が引き出される。そして、それらの具象化を支える美術や照明や映像、音楽、どれをとっても緻密に丁寧に作り込まれ、完成度が高く、それらが相乗効果となって、おそらく脚本家やスタッフの想像をも超える素晴らしい作品になったと思われる。

 

 とここまで書いたところで、言いたいのは次のことだ。

 今年の大河ドラマに引き替え、昨年の東京オリンピックの開会式、閉会式のひどさはどうだろう。それは、全く一体感を欠き、統制がとれず、一つ一つも世界に披露するだけの内容もなく、混沌として醜悪な姿をさらすものであった。これを見て日本の国力の「劣化」を痛感した人々も多いのではないだろうか。我が国はもう以前の輝きを失い、坂道を下るだけの国になりはててしまった、そのように感じられた。そんな中での、この大河ドラマであった。我が国も、まだまだ捨てたものではない。しかし、これだけ多くの才能あふれるスタッフが国内におりながら、世界への国威発揚の場ともいえるオリンピックの舞台が、何故かくも無残なものとなったのだろうか。

 ここに、我が国の根本問題があると感じる。つまり、才能のある人々に活躍の舞台が与えられず、逆に、才能のない人々がそれらを占拠しているのではないだろうか。その疑いは、これに先立つ五輪のエンブレム問題と同様だ。こうしたことの生じる理由は、おそらく人事の世襲や縁故、利害関係などの情実が我が国の中で強固に幅広く横行しているからではないだろうか。その典型的な姿は政治の世界で見ることができる。我が国の現在の低迷は、国内に優れた人々がいないわけではなく、すぐれた人々にそれにふさわしい活躍の場が与えられていないからなのではないだろうか。

 我が国は、自由競争の社会であるといい、勝者が経済的な成果を得る社会であるという。しかし、その見方は正しいのだろうか。むしろ、経済的な成果を独り占めする人々が公正な競争関係を歪め、支配している状態なのではないだろうか。反対に、素晴らしい能力を持った人々が活躍の場が与えられず、経済的な苦境から、本来とは全く異なる道で生活をしている人たちも多いのではないだろうか。

 近年、大学院を卒業した人たちが、就職先がなく、また就職先があっても短期の期限付きの職にしかありつけず、大学の臨時講師や、場合によると全くふさわしくないアルバイト生活で不安定な生活を余儀なくされているという。大学院を出て、大学で講師ができる人というのは、一般人と比べてどれだけ高い能力であることだろうか。もしも、このような状況が広がっているのならば、実に国の損失というものだと思う。これらの人々をもっと大切にすべきではないだろうか。

 理想は、本来の能力に従って、活躍の場が与えられる社会を作ることだと考える。その場合、活躍の場の大小と経済的な報酬の大小とは比例しないだろう。本来、人間は、自らの才能があることに自然と取り組むものだ。おそらく、現在、ある方面で活躍している人は、報酬を目当てにその道に進んだという人は少ないのではないだろうか。経済的報酬を目当てに、選ばれる道は、その人の自然な道とは限らない。この経済的報酬の面で、自らの才能と異なる道に進む人々のどれだけ多いことだろうか。であるならば、どの道に進んでも、人々の経済的な報酬に余り差がなく、生活が維持できるといった状態が必要だろう。つまり、経済的に公平な社会だ。競争社会の前提には経済的な公平がなければならないはずだ。

 人々が、自らの天分に応じ、本来の才能のある道に進み、その才能の大小に応じて活躍の場が与えられることが理想だと考える。そうすれば、国内は才能ある人々が、さらに相互の影響により光を放ちはじめ、国全体を明るく照らすのではないだろうか。

 

 大河ドラマは、ある人生の終焉と、新たな世代の誕生として希望の光を灯してフィナーレとなったが、我々にも希望の光を見せてくれるものであった。