少子化問題について(6)

少子化問題の理解のために

 

 少子化問題の根本は我が国の経済の分配構造にあると考える。企業が高収益を続ける一方で、十分な分配がないために一般国民の生活に必要な貨幣が行き渡らなくなったことが、少子化に結びついていると考えられる。そしてまた、これが我が国の経済の長期低迷の原因ともなっている。

 

 少子化の問題を議論すると、いつも議論百出で一向にまとまらない。理解がしやすいように、いくつかの喩えを用いて少子化問題について考えてみよう。

 

(1)少子化の状況は、乱獲による漁獲量の減少に悩む漁業者にたとえられるだろう。漁師が魚を根こそぎさらってしまうと、数年後には著しい不漁に陥ることがある。そのため、漁業者は漁の時期を制限したり、稚魚を獲りつくすことのないように目の大きな網を用いる。そして、人工ふ化や稚魚の放流など、漁業資源の保護に努めている。

 農業においても、収穫物をその年にすべての費してしまうことなく、一部を蓄え翌年の種まきに備える。また、特定の農作物を連作すると、土地がやせるため、休耕田をもうけ、地力(ちりょく)の回復に努める。

 林業においては、すべてを伐採してしまうと禿げ山となり、表土の流出や災害を招くので、一部は残すようにし、跡地は植林に努める。

 つまりは、人間の欲の思うままに、すべてを取り尽くしてしまわないという知恵だ。このような知恵は、古来からあって、これこそが自然との共生と持続可能な社会である。持続可能な社会とは、二酸化炭素による温暖化防止だけではないはずだ。

 少子化とは、国民経済に対する一種の「乱獲」なのだ。

(2)この少子化をもたらした構造は、実は国民生活だけではなく、企業の経済活動にも悪影響を及ぼしている。というのは、国内市場が停滞、縮小することによって、企業も海外企業との競争で劣勢を強いられるからだ。そして、今後、少子化は急激な人口減少として現れてくるから、経済規模の縮小は企業にとっても活動の基盤が損なわれることにつながる。

 これは、先ほどの漁業者の例でいうと、乱獲の結果、不漁に陥るのと同じ話だ。極度の不漁は、漁業者の死活問題になるのと同様に、企業も存廃に関わることになるのだ。企業もまた社会の構成要素であって、社会が維持・発展しなければ、自らの存続も危うくなる存在だ。その関係は、宿主の死により消滅する寄生生物にもたとえられるだろう。

 

(3)それでは、どうして企業は利他的行動がとれないのだろうか。その点については、企業は、感情がなく、ひたすら利潤を上げ、それを無限に蓄積しようとするマシンにたとえられるだろう。企業は、利潤を上げることが存在意義であり、その目的のためにだけ行動する。そして、それは経済活動にとどまらず、政治的分野にまで自己の利益の最大化に有利な状況を作り上げるようにはたらきかけ、それに抵抗する勢力を排除し、思うままに政治を動かそうとする。そして、自らの成長のために人間を操り、支配する。その姿はSFに描かれた「人間を支配する人工知能」のようだ。企業というマシンに美しい幻想を持ってはならないし、まして社会の存続を委ねてはならない。人間はマシンの奴隷になってはならない。そのマシンの行動に規制をかけ、活動を誘導するのは、国会や政府の役割だ。

 

(4)少子化の問題はまた、「公害」の問題とも似ている。たとえば、一人の人が焚き火を燃やし煙が出たとしても、風が吹けばすぐに空気はきれいになる。一人の人が川に汚水を流しても、水が流れるとすぐに元の清流に戻る。このように、数や量が全体の中のごく少数・少量であれば、どのように汚染をしてもほとんど影響が生じることがない。ところが、その排出量が膨大となったときに、空気や水は浄化されず、人々の健康被害をもたらす。我が国の経済問題もこれと似たところがある。たとえば、一つの企業が経営改善のために、正社員をリストラして安いパート労働者に変更し、業績が改善したとする。それが社会全体に及ぼす影響はないが、その「成功体験」を見た人々が一斉に、その成功に続けと、同様の行動を取れば、社会全体に低所得者があふれ、景気は悪くなり、失業者は増加し、社会不安が増大するなど、社会全体に深刻な被害をもたらすだろう。

 利益追求のために、本来負うべき費用を負担せず、外部に付けを回し、社会に重大な被害を及ぼすのが公害である。少子化は一種の「経済的公害」といえるだろう。かつて、企業は汚染物質の排出に何ら費用を負担せず、海や川、大気中にそのまま放出した。現在では、汚染物質の処理に要する費用負担は排出者の当然の責任として捉えられるようになった。同様に、企業が人を雇用する場合に、その人の生活はもちろん、次世代の育成に必要な費用を負担することは、企業の当然の責任と考えるべきだろう。

 現代の子供たちは、百年後の地球のことを考え、ゴミの排出を減らし、二酸化炭素の排出抑制に努力しようとしている。責任ある地位にある者は、せめて20年後、30年後の社会を思って、行動してほしいものだ。

 

(5)我が国の経済は、日照りで大地が乾き、草木も生えなくなってしまった状態にたとえることができる。大地からは水が蒸発するが一向に雨が降らない。水の循環のバランスが崩れると、次第に大地は枯れ、やがて生物は死に絶え、不毛の砂漠となる。

 

(6)欲張りな子供が、壺から木の実を取り出そうとして握ったその手が抜けなくなった。子供が困って泣いていると、通りがかった人が、つかんだ木の実を少し減らすように教えた。すると、いとも簡単に手を抜くことができた。

 

(7)最後に、日本の民話を紹介しよう。

 昔、貧乏だが親孝行な息子がいた。病気の母親に薬を与えたいがお金がない。裕福な伯父に頼んだが、欲張りな伯父は取り合ってくれない。困っていると、ある日夢枕に観音様が現れ、不思議な一本歯の下駄を与えてくれた。その下駄を履いて1回転ぶと小判が1枚出るという。ただし、1回転ぶと、少しだけ背が縮むから、ほどほどに使うようにとのことだった。目が覚めた息子はその下駄を履いて転んでみた。すると、小判が1枚ちゃりんと現れた。息子は喜び、その下駄を使って小判を数枚出して、薬を手に入れた。母親はその薬ですっかり元気になった。その話を聞いた伯父は、息子の家に押しかけ、奪うようにその下駄を持って行ってしまった。しばらくして息子が伯父の家を訪ねると、座敷に小判が山のようにあふれていた。その小判の山に埋もれるように小さく蠢くものがある。それは、転びすぎて背丈が縮んだ伯父の姿だった。

(日本の民話「宝の下駄」)

 

 この姿は誰かに似ていないだろうか?