新型コロナウイルス禍 繰り返される「失敗の本質」

  日本の新型コロナウイルスワクチン接種の遅れが際立っている。英オックスフォード大などによる16日までの調査で、少なくとも1回投与された人の割合は約3%にとどまり、世界平均の約9%に及ばない。接種体制の整備遅れから、発展途上国レベルの世界110位前後に低迷。接種が進み、普段の生活を取り戻しつつある欧米とは対照的だ。

(2021/5/16 東京新聞

 

 このたびのコロナウイルス禍は、本来、比較対照が難しい世界各国の行政の能力と実績が横並びで比較される希有な機会であった。我が国はこれまで、世界有数の経済大国として、先進国、技術大国を標榜してきた。このたびのコロナウイルス禍でも、その当初には、衛生観念が高く高度な医療技術を誇る我が国であれば、少なくとも他の国々よりも上手く対応できるのではないかという、ある意味、過信というか、暗黙の信頼感があったように思う。ところが、いざ蓋を開けてみると、政府の中途半端な後手後手の対応、 「gotoトラベル」などのちぐはぐな対応が目につき、その挙げ句、ワクチンの接種率は、世界110位前後と、ほとんど発展途上国並みの数字で、我が国の自画像に対する認識を改めなければならない程だ。

 この光景は既視感のある光景だ。

 それは太平洋戦争における光景だ。明治維新後、日本は富国強兵に努め、日清、日露の両戦争に勝利し、その後の第1次世界大戦でも戦勝国側となり、国際連盟においてイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国となり、アメリカを加えた5大国の一員として、世界の「強国」の仲間入りを果たした。そのような輝かしい「強国」であるはずの我が国が、太平洋戦争が始まる頃にはいつの間にか内実が著しく劣化し、いざ、太平洋戦争が始まってみると、物資の貧窮と技術水準の低さで、竹槍で爆撃機を撃ち落とそうとするような悲惨な姿をさらすことになり、ついには国土は焦土と化してしまった。

 このたびのコロナウイルスへの我が国の対応を見ていると、先進国であったはずが、いつの間にか劣化してしまっていた80年前の姿を思い起こさせる。まさに歴史は繰り返すようだ。

 

 どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。こうした失敗を繰り返すのは我が国の社会に存在するなんらかの構造に原因があるのではないか。

 それは、我が国の社会構造の特徴に求められるのではないかと考える。

 その特徴とは、我が国の社会の二重構造である。我が国は近代的な姿をまとっているが、その基礎は封建的な未だ前近代的な社会だ。つまり、表面的な社会は資本主義体制下にあって、近代的な合理性が貫徹する競争社会で、その中にあって受験競争や職場や企業間の競争など、互いが切磋琢磨をする社会であるが、その裏側には情実や縁故、封建的な身分の上下の意識などが払拭されずに根強く残っている。明治維新や太平洋戦争後には、そうした旧体制がいったん破壊されてしまったから、より合理的、競争主義的側面が伸張したが、安定期に入ると元来の古い体質が頭をもたげ、情実や縁故に基づく合理性のない人事や組織運営が横行するようになり、役割に適した人物がその地位に就くことが少なくなってくる。

 今回のコロナウイルス禍でも、非常に厳しい状況が続く中にあって現場の医療関係者や行政機関の職員等の高い職業倫理に基づく、献身的な奮闘が伝えられている。にもかかわらず、どうして全体としてはうまく対応ができないのであろうか。それは、おそらく、非常時というものは通常の組織の権限の範囲内で処理できるものではなく、その枠組みの組み替えや優先関係の見直しが必要なのだ。これを行うのは、組織の上層部や政治家の役割になるのだが、我が国はこの辺りの機能が決定的に弱いのだと考えられる。上層部に権限が与えられていないわけではなく、その権限を振るう能力を有していないため、このような枠組みの組み替えや優先関係の見直しができないのだ。その結果、平時はそれでも問題がないが、非常時にあって「現場任せ」になってしまう。こうした場合には「現場の独走」ということも一つの解決策なのかもしれないが、現在の日本ではコンプライアンスの強化によってそれも許さない仕組みになってしまっているので、結局、非常時にあっても通常どおりの機能しか発揮できないのだ。これが現在の我が国の社会、特に行政機構の機能不全のメカニズムだと考える。

 こうした構造を持つ社会は、根本的な枠組みの変更を行うことが不得手だ。我が国の社会が全盛期には世界有数の隆盛を示すものの、いつの間にか劣化し、世界の趨勢から遅れをとることを繰り返すのは、これが原因だと考える。

 さらに、悪いことに、ここ10年ほど政治主導と称して政治家が人事権を武器に我が国の官僚機構を支配していた。「日本を取り戻す」をスローガンに、「戦前への回帰」を目標に、戦前のような藩閥や財閥、血縁や地縁による特定のグループが社会の権限を恣にする社会の復活を目指すものであった。その結果、社会のいたるところに、情実や縁故、忖度による行政や人事が横行し、本来合理的に行わなければならない適材適所の人材配置が行われなくなり、行政機構の劣化が著しく進行したのではないか。

 本来であれば、行政機関は一般市民より高度の情報を入手する立場にあり、それに基づき、一般市民よりも先んじて適切な方針を打ち出していかなければならないはずだ。だから、一般市民は、行政の決定・発表をもって、その先行きを知るようなことが普通であるだろう。しかし、現在は、一般市民の方が情報に詳しくなり、こうあるべきだというのが誰の目にも明らかになっているのにもかかわらず、行政の方が一向に必要な施策を打ち出さない。それが、すなわち行政の「後手後手」の姿だ。それに比べて欧米では行政機関の優越は機能しているようだ。その結果、我が国では海外のニュースから国内の姿を知らされるようなことも起きている。つい先日も、アメリカの国務省が我が国に関する渡航情報を最も厳しい「渡航中止の勧告」に引き上げたことが報道され、驚かされたのがその例だ。

 アメリ国務省は日本に関する渡航情報を4段階で最も厳しい「渡航中止の勧告」に引き上げました。新型コロナウイルスの新規感染者数などをもとに、アメリカCDC=疾病対策センターが日本の感染状況を最も厳しいレベルと判断したことを反映した結果だとしています。

(2021/5/25 NHK NEWS WEB)

 

  「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」とは、ソ連の司令官ジューコフスターリンの問いに対して発した言葉だ。これは戦前の日本社会の弱点をよく表している。この言葉は果たして過去のものとなったのだろうか。