東京五輪開催を巡る動き

 東京五輪をめぐり、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が3日に「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言したことが、与野党に波紋を広げている。

 尾身氏は2日にも国会で、「普通は(五輪開催は)ない。このパンデミック(世界的大流行)で」と指摘。「そもそも五輪をこういう状況のなかで何のためにやるのか。それがないと、一般の人は協力しようと思わない」と注文をつけていた。

 与党内には受け止めの温度差が見られる。公明党北側一雄・中央幹事会会長は「ご指摘はその通り。菅首相は五輪の意義を国民に改めて説明していただきたい」と語った。一方、自民幹部は「ちょっと言葉が過ぎる。(尾身氏は)それ(開催)を決める立場にない」とし、「(首相は五輪を)やると言っている。それ以上でも以下でもない」と不快感をにじませた。

(2021/6/3 朝日新聞

 

 東京五輪をめぐり、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が3日に「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言したことに対して、与党内で批判の声が上がっているようだ。

 尾身会長の立場は、公衆衛生の専門家として、新型コロナウイルス感染症対策について、科学的な分析に基づき、良心に従って、見解や意見を述べることにある。だから、その意見は周囲の者にとって必ずしも好ましい意見だとは限らないだろう。しかし、だからこそ意味があるのであって、最初から結論ありきで、その立場を放棄してしまうなら、そのような専門家の存在意義はない。もちろん、最終的な結論は、公衆衛生の観点だけではなく、社会や経済、その他の視点も考慮して総合的に、民主的に選ばれた権限がある者が下すことは当然のことだ。しかし、それは全くフリーハンドというわけではなく、多くの国民を納得させるだけの理由を明示して行う必要があるし、その結果生じる事態について最終責任を負わなければならない。

 にもかかわらず、専門家が意見を述べることに対して、批判の声が起きるのはどういうことだろう。

 それらの批判を行う者は、オリンピックを開催したい者に違いない。ただ、それに伴う責任を負いたくないのだ。つまり、みんながオリンピックの開催に賛成していたという状況の中で開催を決定したいのだ。だから、誰にも反対の声を上げてほしくないということだろう。しかし、本来、責任は最終決定権者が負うべきものなのだが、その責任を放棄している。これは無責任というものだ。この責任を負わずして、最終決定権者、すなわちトップの座に居座り続けたいのが彼らの思惑なのだ。つまり責任をうやむやのままに、自らの思いのままに方針を決定したいのだ。最近の政治家は、「責任はすべて自分にある」と口にするが、それはどういう意味なのだろうか。本来、政治的に責任を負うということは、最終決定権者が、その結果を自分が招いたものとして一手に引き受け、非難に甘んじ、自らの誤りを認め、最終的にはその地位を追われるということだ。しかし、政治家が口にする「責任」は、そのような重みを持つものではないようだ。

 自らの意見、自重したり遠慮したりすることのない、自由な意見を皆が公に表明し、議論を通してその中で誤りのない結論を得て、全構成員が共通の理解と意思をもって社会を運営していくのが民主主義のあり方だろう。特に、これは科学の分野においてはきわめて重要だ。科学の分野、すなわち物理現象や化学現象は、同一の条件ならば同一の現象が必ず発生する。(だからこそ、実証が可能なのだ。)人間は忖度するかもしれないが、物理や化学は忖度しない。だから、希望的観測だけで物事を運ぶと、手痛いしっぺ返しを食うのだ。だから、科学の分野では、決して忖度して事実を歪めてはならない。しかし、我が国の社会はこうした過ちを犯しやすい傾向がある。

 今回は、たまたま、尾身会長は自らの立場に従って意見を表明したが、冒頭の報道が伝えるような批判を受けることを恐れたり、自らの地位が脅かされたりすることを懸念すると、自発的に自らの意見を封じて、大勢に従ってしまうことが起きる。これがすなわち忖度というものだ。

 では、どうしてこのような発言の自粛が起きるかというと、発言をすることによって有形無形の不利益があるからだ。本来、民主主義国である我が国は、発言によって不利益を生じるようなことは許されないはずだ。それがすなわち言論の自由というものだ。しかし、これが保障されておらず、反対意見を述べたがために更迭されたり、どこからともなく現れる夥しい批判(暴言)の嵐に晒されるのが我が国の現状のようだ。

 意見の是非はともかく、もっと自由な発言を尊重するべきだろう。特にマスコミも自分たちの報道の自由に対して敏感に反応するだけではなく、言論機関として社会全体の自由な言論の保障に対しても、もっと敏感であるべきで、意見を封じる動きに対して毅然とした態度を示すべきだろう。