大阪都構想住民投票のその後(2)

 大阪都構想に対する住民投票は反対多数の結果となったが、大阪府の吉村知事は住民投票の余韻も冷めない11月6日に、二重行政の解消が住民投票で示された民意であるとして、都構想に代わって広域行政の「一元化条例」の制定を目指す考えを表明した。

 大阪都構想の本質は「大阪市民の保有する権限と財源の縮小」ということであるから、「一元化条例」は「対案」ではなく、都構想そのものだ。住民投票で否決された案を、自分たちの都合のよい勝手な解釈で、再び、住民投票すら通さずに、俎上に乗せようとするものであり、非難は免れないだろう。

 大阪市議会は定数が83人で、大阪維新の会が40人、自由民主党・市民クラブが19人、公明党が18人、日本共産党が4人、市民とつながる・くらしが第一2人となっている。大阪維新の会は最大会派であるが、単独では過半数にはいたらない 。しかし、今回の住民投票のように公明党が賛成に回ると本条例は可決が可能な状況だ。ネット上では、多数決が議会制のルールであるから当然のことだ、嫌なら次の選挙で落とせばよいだろうという声もあるようだ。しかし、市長や市議会議員は市民の信託を受けて市民の代理人として市民の利益のために行動するのが本来の役割のはずだ。市民の権利を勝手に縮減するのはありえない。個別の問題ならともかく、府と市の二重行政を理由に包括的に大阪市の権限と財源を大阪府に献上しようとすることは大阪市民に対する背任行為と言えるだろう。

 大阪都構想でも疑問に思っていたが、なぜ二重行政の解消のために、住民に身近な基礎的地方公共団体である大阪市大阪府に権限と財源を献上しなければならないのだろうか。大阪市より大阪府が適切な意思決定ができるという保証はあるのだろうか。二重行政の解消というのであれば、大阪府から大阪市に権限と財源を移譲するという方法があるし、その方が現行の地方自治法にも則した考え方だ。現に、大阪市以外の政令指定都市では、そのような考え方が主流だ。

 それはさておき、この問題は、どちらが大阪市の住民サービスが上がるか、どちらがより成長するかという問題ではない。大阪市にかかる行政の権限と財源の決定権の帰属の問題なのだ。大阪市にかかる行政の権限と財源を大阪市民が守るのか、大阪府に献上するのか、その決定権を誰が握るのかというのが核心的な問題なのだ。

 

 ところで、大阪市民にとって不利益を及ぼす大阪都構想はなぜ提唱され、進められてきたのだろうか。次は筆者の仮説である。

 大阪維新の会は「維新」を標榜しているものの、実はなんら我が国の具体的な課題を解決するプランなど持っていないのだ。経済政策にしてもせいぜい万博やカジノの誘致ぐらいで、本来、何かを行おうとして政権を握ったわけではない。マスコミの寵児が、何かをしてくれるのではないかという人々の期待を受けて、当選してしまったものだ。

 何かを「敵」に仕立て上げ、その敵が抵抗するから改革が進まないというストーリーで、その仮想敵に対して戦う姿勢を見せることによって民衆の支持を集める「劇場型」が彼らの政治手法なのだ。その敵が大きければ大きいほど、実際にそれが実現するのに時間がかかるし、その間、自分たちの仕事がうまくいかなくても、それを理由に責任転嫁をすることができる、都構想は大変都合のよい隠れ蓑だったのだ。遠い遠い先に素晴らしい世界がある、そこに至ることの希望を振りまき、人々に期待を持たせ、現実の世界では課題の解決は先送りされる。しかし、それはすべて自分たちに抵抗する守旧派が原因だと。

 彼らにとって仮想敵の存在は不可欠で、今回の住民投票で敗れたことは目標の喪失で、存在意義に関わることだ。だから、都構想が否決されたあとも、看板を掛け替えて、闘いを継続させようと目論んでいる。

 しかし、もう、これも終わりだ。いつまでも、架空の劇場に時間を費やすべきではない。大阪都構想は人々の目を欺くものだ。この問題に、どれだけの時日を費やしただろう。いたずらに対立をあおるのではなく、社会の構成員が手を携え、真に人々の平和と幸福の実現のための政治を行うべきだ。

 社会において、権限や能力が誰かに一元化されていることはあまりない。逆に、権限や能力は社会に分散していることが普通だ。だから、社会で物事を進めるためには社会のそれぞれの主体の相互協力が欠かせない。

 自分たちと考えが違う者がいるから、自分たちの幸福が実現できないと考えるべきではない。自分たちと考えの違う者を排除することは独裁の第一歩だ。忍耐と譲歩、協力と分かち合いの中で、物事は進んでいくのだ。破壊することばかりに血道を上げるのではなく、相互理解と協力関係、創ることにこそ精力を傾けるべきだ。政治は、破壊することではなく、信頼と関係の創造であるべきなのだ。