原口忠次郎の顕彰

 現在の久元神戸市長から3代前の宮崎辰雄市長は、「都市経営」を標榜し、「株式会社神戸市」として一世を風靡したが、その前代の原口忠次郎市長は宮崎市長ほどその名を知られていないのではないか。しかし、ポートアイランドの建設等、宮崎市長の功績とされているものも実は原口氏の構想に基づくところが多い。(ポートタワーも原口氏の着想である。)

 原口氏は、誠に偉大な着眼力・構想力を持った人物で、本州四国連絡橋明石海峡大橋)を自ら構想し実現に取り組んだことは有名だ。1959年出版の著書「夢のかけ橋」を見ると、その当時からすでに、将来の交通体系が自動車中心となることを予想し、道路鉄道併用橋ではなく、道路単独橋とすべきと考えていたことに驚きを覚える。

 もともと内務省の土木技官であったため、架橋の推進を市長の道楽と揶揄する向きもあったようだが、「明日の神戸の発展は瀬戸内の発展と不離一体である」、「背後地帯に乏しい神戸港。交通の便が悪いがために後進地のままに放置されている四国、これを橋で直結することによって双方の発展と繁栄を図る」これが、明石海峡大橋建設を推進した理由であった。さらに、原口氏は、神戸の近辺に国際空港を建設することも構想していた。「神戸港という世界の貿易港をもち、新しい国際空港をもち、そして循環道路や航路の網の目で全体がくまなくつながれるならば、瀬戸内海はひとつのまとまりのある広域圏として、秘めた力を十分に発揮できるであろう。そして神戸が、瀬戸内圏の名実ともに陸と海と空のターミナルとなる、という青写真を、私は思い描く。」こうした構想の受け皿としてポートアイランドを計画をしたのであった。

 原口氏の「大神戸市」構想は後任の宮崎氏によって換骨奪胎され、現在のこじんまりとした「小神戸」の姿となっている。これらの構想の内、ポートアイランド明石海峡大橋神戸空港など一部は現実のものとなっているが、原口氏が構想したような位置づけが与えられず、十分活用されていないように思える。

 原口氏は、「神戸の発展は周辺のことを考えて共存共栄の方向に進まなければ図れない。」、「私は、神戸は未来をひらく都市だと考える。他のどこよりもすぐれた条件に恵まれており、工夫の余地が山ほどあるからだ。問題はそれを生かすかどうかにかかってくる。」とも述べている。

 原口氏は、神戸の偉大なる恩人としてもっと顕彰されるべきと思う。