父母の面影

 先年、相次いで父母を亡くした。

 自分がこの世に生まれてから、その存在を疑うこともなく、あれほど確固としてゆるぎなく見えた父母がこの世からいなくなってしまった。しかし、生前はその存在を意識することはあまりなく、まさに空気のような存在であった。

 喪ってみて、あらためてその存在を意識するようになった。老齢の人の生年月日を見聞きすると、父母の生年を思い出し、もういい年になっていたのだなと理解する。やはり自分の父母も老いていたのだ。子供たちには決して見せなかったが、街で見かける高齢者と同様の、衰えや痛み、苦しみ、悩みを抱えていたのだということにようやく気が付いた。

 亡くなった父母の面影を高齢の人たちの中に見いだすことがある。とぼとぼ歩く後ろ姿や、ふとした表情、動作、姿勢、その中に生前の父母の姿がある。父母の面影は街中のいたるところに見いだすことができる。街で見かける高齢者、彼らは自分とは縁のない者であるが、父母の面影でつながっているような気がする。その面影に対して、父母と同様に話しかけ、心を配ってやろうとする気持ちが、わずかに、どこかで生じる。父母はこの世から消えてしまったが、自分の周囲に溶け込み、いつも自分を見守ってくれているように感じる。人はそのようにして永遠になるのだろう。

 親の死を介して、兄弟や親族は一同に会し、故人を偲び、旧交をあたためる。自らの世を去る姿を見せることにより、残された者もまた、いつかこの世を去ることを教えてくれる。幼かった頃に様々な生きる術を教えてくれたように。死は、子供たちへの最後の贈り物なのだ。