少子化問題について(3)

少子化のメカニズム

 

 以上の分析を足掛かりとして、少子化のメカニズムをモデル化してみよう。

 

必要な生活費(X)

=自らの生存に必要な費用(A)+次世代の育成に必要な費用(B)×子供の数N人

 

収入(Y) ・・・給与など

 

X<=Y

 

自らの生存に必要な費用(A)、次世代の育成に必要な費用(B)は定数

 

 

 各世帯レベルで見ると、基本的には、X<=Y の関係が成り立つだろう。もしも、X>Y の状態となれば、それを補うためには借り入れが必要となるが、いつまでも借り入れを続けることはできないので、長期的には、上記の関係が成り立つはずだ。つまり、個人は、この関係の中で生活し、子供の出生数を選択することになる。

 Yが十分に多いならば、個人の希望に応じた子供の数を持つことができるだろう。しかし、Yが十分に高くはないとすると、Yの上限の範囲で子供の数Nを選択することになる。

 現在、デフレが長期にわたって継続する中で、正規雇用が減って非正規雇用の割合が増加し、Yが絶対的にも相対的にも低くなってしまった。Yが低くなると、Xの抑制の必要がある。結果としては、Nの値を減らす必要がある。

 そして、このことは、非婚化・晩婚化にも影響を与えていると考えられる。つまり、結婚しても、長期的に、1以上のNを持てるだけの経済状況を安定的に確保できないと予想する場合には、端から結婚を選択しない、もしくは、この条件が整うまで婚姻を遅らせるという行動を取る。

 

 以上が、非婚化・晩婚化、既婚者の少子化のメカニズムだと考えられる。

 

 これを、図示すると次のとおりである。

 

少子化モデルの図)


  図は、個人の収入(Y)と必要な生活費(X)との関係を表したものである。
Aは個人の生活に必要な費用、Bは次世代の育成に必要な費用(一人あたり)を表す。Bに乗じられた数字は子供の数(N)である。

 図では、ⅠからⅣまでの階層に区分されており、右に向かうほど所得は高くなる。

 Ⅰ階層は、収入が個人の生活費を下回っており、なんらかの扶助を受けないと個人の生活すら成り立たない。

 Ⅱ階層は、収入が個人の生活費を上回ってはいるものの、子供を育成するには足りない。

 Ⅲ階層は、収入が個人の生活費と子供1人の育成費を賄うことができるが、子供2人を育成するには足りない。

 Ⅳ階層は、収入が個人の生活費と子供2人の育成費を賄うことができる。

 

 こうした関係の中で、社会の構成員の分布が左側(低所得)にシフトすると社会全体の少子化が進むことになる。

 

 

 ところで、自らの生存に必要な費用(A)や次世代の育成に必要な費用(B)は、社会全体の経済や文化水準によって規定される。商品化が徹底された現代の社会では、生活に必要な資材は商品として手に入れる他はなく、それを入手するための貨幣の獲得が決定的に重要となる。つまり、「お金がなくても、なんとかなる」社会ではないのだ。すべて、必要なものは、市場で手に入れなければならない社会だ。

 少子化の議論をすると、必ず、「昔はもっと貧しかったのに子だくさんだった」という主張(注)が出てくる。これは、上記の状況を無視した主張だ。昔の社会は、自給自足的な側面を多く残しており、家庭内のサービスも自足的だった。現代のように高い教育や訓練が求められず、小学校を卒業すれば働きに出される社会だった。極端に言えば、放っておいても子供が育つ社会であった。逆に、短期間の養育で新たな働き手を得ることができるという経済的にプラスの側面があった。ところが、現在は、働き手には高い教育や訓練の水準が求められ、特に昨今のような、安定した働き口がすべての人に用意されていない状況においては、それを獲得するための競争は一層激しくなり、より高度の教育・訓練を求められるようになる。その結果、子供の教育・訓練に要する負担が増加せざるを得ない状況があるのだ。

 

(注)ネット上の少子化に対する意見の例

 こういう貧困と少子化を結び付けてる記事が最近増えてるけど、全然違うって。
 今も昔も世界中のデータで見ても貧困国の方が出生率高いし、日本も貧しかった昔は出生率高かったでしょう。
 豊かさと出生率は結び付かない。

 みんな教養が高くなり平等・自由になって色々な人生の選択肢が出来た結果少子化になった。
 これは経済発展した結果の自然現象であって、給料が高くなったってもう大して出生率は増えないよ。
 産まない次の理由が出てくるはず。
 日本より給料が高い国の出生率が大して高くない事を見れば分かる。
 出生率が増えたように見える先進国も実際は移民を沢山受け入れ彼らが沢山子供を産み数字を増やしている背景がある。

 日本も移民を沢山受け入れれば出生率は増えるだろうけど、他の先進国のような治安が悪くなるのと引き換えなら私はこのままでいい。

 

 

 このモデルの意味をもう少し掘り下げて考えてみよう。

 もし、収入(Y)が、自らの生存に必要な費用(A)を下回るなら、その個人は生存ができなくなってしまうから、それに対して何らかの国の助成が必要であると考えるのは当然だろう。もし、収入(Y)が、自らの生存に必要な費用(A)を上回るが、子供の数Nが1に満たない場合、子供を持つことができない。このことは、許容されるべきことなのだろうか。確かに、その個人は生存できるが、子供が持てないということになると、その社会は、いずれ消滅することになる。市場経済の下で、社会の持続に十分な子供の数を持てるだけの収入が与えられないなら、やはり国が何らかの対策を講じるべきだろう。社会の維持は国の重大な責務である。社会の維持にとって、現世代の人が生活できるのはもちろん、個人の生命が有限である以上、それを受け継ぐ次世代の育成は不可欠なことだ。その次世代育成の費用を誰も負担しようとせず、自らの利益確保にだけ血道を上げているのは異常なことだ。こうした持続可能性のない「焼き畑農業的」な経済活動を放任せずに、国はなんらかの規制を行うべきではないか。それとも、国内で人が足りなくなれば「輸入」(移民)をしたらいいと考えているのだろうか。

 

 このモデルから考えられる少子化対策の方向性は次の通りである。

(1)Yの引き上げ

 賃金の引き上げ、安定的な職を増やすこと、あるいは公的な扶助(子ども手当など)を増やすこと

(2)Xの引き下げ

 ① Aを引き下げること

 税金や公的負担の引き下げ(消費税の引き下げ、所得税の控除の拡大、社会保険料の公的負担割合の拡大など)

 ② Bの引き下げ

 保育料、教育費の引き下げ(学費等の引き下げ、支給型の奨学金制度の拡大など)など

 

 至ってシンプルな結論となる。

 

 このモデルは、個人の価値観や考え方にかかわらず、子供を持つことができるための客観的条件を示すものだ。仮に、子供を持ちたいと希望した場合でも、この条件を満足しない場合には、子供を持つことは実現することができない。ここから得られる少子化問題の解決のための方向性は、子供を持ちたいと希望している人々で子供を持つための条件が整わない人々の条件を改善して子供を持てるようにすることだ。

 少子化の議論をすると、議論百出の状況となり、一向に話がまとまらない。その議論の数々をこのモデルに照らしてみて、その有効性を検討することは有益なことだと思われる。