大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を振り返って

 今年のNHK大河ドラマ三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」であった。ドラマは初回から視聴者の心をつかみ、決して馴染み深いとは言えない歴史上の登場人物が、リアルで明確な人物像が与えられ、自ら動き出すかのように振る舞い、それらが関係を取り結び、ドラマを織りなしていく。これまで、歴史教科書を読んでもよくわからなかった事件の数々が、ごく自然な成り行きのように目の前で展開していく。

 多くの登場人物が、ドラマの限られた時間の中で、ごく短い台詞や振る舞いの中で様々な物事が物語られて行く脚本の手腕は見事であった。連綿としたドラマの中で巧みに織り込まれた伏線が次々に起きる事件の中で一挙に回収されていく様は神回に次ぐ神回という状況で、特にその登場人物がこの世を去る場面が丹念に作り込まれ、まるで旧知の親戚や友人の最期をみるかのように、放送直後には毎回、悲鳴のような声がネット上にわき起こる。

 これらは、群像劇を得意とし、推理ドラマに造詣が深く、登場人物の動機の分析に長けた三谷幸喜の手腕であろう。彼の手により、視聴者はまるでジェットコースターに乗せられたかのように、縦横無尽に振り回され、その興奮と余韻を味わうのだ。

 

 しかし、もう一つ、このドラマが面白いのは、元々の素材の面白さであろう。平清盛後白河法皇源頼朝義経、範頼、北条時政、義時、政子 等など、物語は個性的な登場人物が目白押しだ。そのように魅力的な人物が次々と現れるのは、やはり動乱期だからだろうか。動乱期といえば、この時代以外にも、戦国時代、桃山時代、幕末もある。しかし、この源平から鎌倉初期の物語のおもしろさ、登場人物のユニークさは群を抜いているように思う。その違いはなんだろうか。

 決定的な違いは、その登場人物自らが「平家物語」を知っているか否かだ。源平から鎌倉時代初期の人々は、まさに同時進行、渦中の人々であり、いわば「平家物語を知らない人々」だ。その後の時代の人々は、過ぎ去った時代として「平家物語を知っている人々」である。それらの人々は、平家や源氏の興亡の物語を知っている。勢威を誇った人物、破れ去った人物、失敗した人物、勇敢な人物、愚かな人物、身の処し所が美しい人物、無様な人物等など、その姿を在り在りと見せてくれるのが「平家物語」である。後の時代の人々は、平家物語を聞くことにより、自ずと、人はどう振る舞うべきかを考えるに至ったのであろう。後の時代の歴史は、すべて「平家物語を知っている人々」が造ったものである。それは、有形無形に、人々を謙虚にさせ、行動に抑制をかけ、後代の名を惜しませるようになったのだ。一方、それは人々の行動を理性的にし、美しくしたかもしれないが、平家物語の時代の人々のようなむき出しの情熱や野心、欲望を抑制したのではないだろうか。

 平家物語は、日本人に共有され、大きな影響を残し、日本人の個性を形成した重要な日本人の記憶であり財産なのだ。

 平家物語は、想像を絶する、世界にも希な、運命の逆転劇、数奇な物語、奇譚である。これほど、むき出しで奔放な物語はない。それは、ある意味、道徳や経験則の影響を取り去った実験室のようだ。それだけに、結果が極端で、世にもドラマチックな世界が出現したのだろう。

 では、平家物語の最大のテーマは何だろうか。それは諸行無常だ。諸行無常とは、仏教用語で、この世のすべての物事は、常に移り変わっていくという世界観をいう。物語では、世に並びない強大な権力を持った者、世に時めいた者が、次々と、あたかも木々の木の葉が木枯らしに一掃されるかのように跡形もなく吹き飛ばされてしまう。そのすさまじさは、人間の儚さを考えさせるに十分だ。では、諸行無常の拠って立つ視点は何だろうか。それは超長期の視点だと考える。超長期の時間を想像すると、すべての命は失われるし、人々が作り出した物、自然の姿形でさえ、いつまでも姿を変えないものはない。人々は現在の趨勢を見て、その趨勢が永遠に続くように考えがちである。しかし、これを長期の視点で見れば、趨勢はいつか逆転し、循環するように推移していく。そうした循環を繰り返しながらも、さらに超長期を考えるなら、結局は安定した静寂の姿を見ることができる。こうした考えは莫大な数を考案したインド的な思考と結び付いているのだろう。

 

 

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