富とは何か(6)

 貨幣は紙切れにすぎないが、なぜ絶対的な価値のあるものとして流通しているのだろうか。

  元々、貨幣は金や銀などの金属が、その希少性、保存性の高さから一般交換手段=貨幣となった。その後、商品経済が広がり、あらゆる物が商品となって売買されるようになり、その結果、すべての物の価値が貨幣で表示されるようになった。

 貨幣はあらゆる物の評価指標となり、もはや貨幣なくして物の価値が計れない。それに代わる方法も存在しないため、すべては貨幣単位で表示されざるを得ない。

 また、交換を行う場合、それぞれの商品が統一した指標で評価ができなければ交換そのものができない。貨幣の貨幣のない社会というものは考えられない。

 貨幣は兌換紙幣を経て、現在は不換紙幣となった。しかし、それがすべての財や資産の評価尺度となり、貨幣によって等価の財を手に入れることができると貨幣は財を所有していることと同等とみなされるようになった。そして、長年にわたり日々取引に使用されると、貨幣は「命の次に大切なもの」とまで言われているほどに、貨幣を貴重なものとする価値観が習慣となった。

 どうして、その紙切れにそれだけの効能があるのか、その根拠が確認されないまま、それに代わる方法もないため、現在でも貨幣として絶対普遍の一般交換手段として用いられ続けていると考えられる。

 それは、空気や水が生命の維持に欠かせないものだと理解しているが、その起源やその理由がわからないままになっているのと同様だ。あまりに当たり前になってしまうと、その存在にさえ気がつかないことがある。

 

 見方を変えると、貨幣は、金や銀であったその昔から機能の二面性があったのだと考えられる。貨幣そのものが商品として使用価値を持つと同時に、それは交換価値(いつでも誰とでも等価の商品と交換できる価値)を持っていた。やがて商品経済が社会全体に普及すると、むしろ交換価値のために貨幣を求めるという側面が強くなった。いつしか、貨幣は貴金属である必要はないと思えるほどその傾向が強まり、ついには銀行で金や銀と引き替えできない不換紙幣となり、機能が交換価値に純化したのが現在の姿だと考える。(しかし、貨幣で金や銀を市中で購入することは現在でも可能だ。)また、社会全体で取引が拡大すると、金や銀の保有量に貨幣の量が縛られる不合理性が認識されるようになったことも、兌換制が廃止となった大きな理由だろう。