神の沈黙について

 マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』は、遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする映画である。

 「神の沈黙」という問題は、宗教上の問題で、人々が危機や苦難に直面する時に、全知全能、絶対善の神が、救済を求める人々の祈りに対して姿を現すことなく、何ら救いの手をさしのべず、あたかも「沈黙」しているかのように見えることを言う。

  遠藤周作の小説「沈黙」は、これをテーマに書かれた作品だ。この小説では、それは沈黙しているのではなく、神が人間とともに苦しみを分かち合っているのだと理解がされている。  

 太古の神は、人間の祈りに対して日々姿を現し、善を実現し、危急の際には敵を滅ぼし、信じる者に対して直接救済をもたらす存在であった。つまり日常レベルにおける解決をもたらす存在であった。しかし、そうした神話の時代にあっても、ヨブ記などのように、信心深い者に対して、次から次へと病や死など不幸が押し寄せることがあり、どうして神はこのような苦難に対して救いの手をさしのべないのかという点が問題となった。しかし、その問題についても、旧約聖書ではその人の人生の間には解決が見られた。つまり、一つ一つの現象についてではなく、もっと長いスパンでの最善、神の意思を理解しようとするという考え方への転換が生まれた。

 そうした聖書の時代を過ぎた頃には、おそらく神の出現は希なこととして、たまたま祈りが通じたように見えた場合にはそれを奇跡として尊ぶようになった。つまりは、それだけ神が姿を現すことが少なかったということだろう。そうした状況では、もはや人生の間には神による救済が得られないため、それに対してなんらかの理由付けが必要となり、人生の期間を超えた数百年単位の一定の時間内での解決が言われるようになってきた。最後の審判というのも、そういう数百年単位の矛盾の解決であろう。

 ところが、世紀末になっても最後の審判が訪れることもなく、現代ではその解決に要する時間はさらに長期化の様相を呈し、いったいいつになったら究極の解決が得られるのか、もはや誰も見通しが持てなくなってきた。もしかすると、それは、数万年、数百万年、数億年単位の時間を要するかもしれないと。

 このようになってくると、神は存在するとして、数億年単位での善を実現する存在、さらには無限の時間において究極の善を実現する存在ではないかとも考えられる。そのように考え始めると、神とは、人間の個人的な善悪とは、まったく関わりのない存在ということになってしまうように思われる。

 そのような存在に対して祈りを捧げることにどのような意味があるのだろう。神は善をなすが、人間の存在をはるかに超える時間であり、人間の思考をはるかに超越するレベルで善を実現する。神の存在を前提するとしても、それは人間の生命とあまりに時間軸が違いすぎて、人間と意思の疎通ができるようなものではないだろう。しかし、神を絶対善の存在であると考えることができるならば、そこに信仰は成り立つだろう。そうした考えに立てば、人間は神に身をゆだねるしかなく、そこから得られる結論は現実にある世界の肯定なのだろう。

 絶対善の摂理の中にいる安心感が、その本質ではないか。

 

 先頃映画を見て上記のようなことを考えた。