失敗に寛容な社会

 我が国の社会は失敗に対して非常に厳しい社会だ。失敗をすれば嵐のような批判、抗議にさらされることになる。そして、こうした失敗に対して最も厳しい批判にさらされているのが、国や地方自治体などの公的部門ではないだろうか。特に、実際に地方で行政を執り行う地方自治体において、この批判が最も厳しいのではないだろうか。

 

 神ならぬ人間である限り失敗はつきものだ。失敗をしたことのない人はないだろう。人間の行為があるところに失敗は必ず生じる。失敗が必ず生じるものだからといって、全く避けることが不可能であったかというと、必ずしもそのようなわけではなく、失敗の原因というのはいたって単純な理由で、少しの注意、少しの工夫があれば回避することが可能であったものが多い。だからこそ、失敗は、あるはずもないものとして異端視され、その行為者は批判にさらされることになる。どうしてそんな簡単なことをしくじるのか、当人以外の人々はそのように感じる。失敗した当人も後から考えると、どうして気がつかなかったのかと強い自責の念を抱くものだ。しかし、それでも発生するのが失敗なのだ。誰もが失敗をする可能性があり、実際に誰が失敗をするかというのはくじ引きで外れくじを引くようなもので、確率的な問題であるとも言える。なぜならば、失敗はその行為に内在する性質、構造に起因するものであるからだ。失敗を防ごうと考えるならば、その性質、構造が何かということを考えることこそ重要だ。その際、失敗はその性質、構造をあぶりだす試薬のようなものだとも言えよう。今まで目に見えなかった構造が、ある失敗によって、ありありと捉えられるようになる。また、あぶりだされた構造は、新たな発明を生み出すきっかけになることもある。「失敗は成功の母」ということわざはこの理(ことわり)を表している。

 失敗が、その行為に内在する性質や構造に由来するならば、失敗は確率的に発生するから、失敗を犯したのはその行為者ではなく自分であったかもしれない。とすると、その行為者の責任ばかりを追及することはあまり意味があることではない。だから、故意や重大な過失ではない原因に基づく失敗を責め立てることは適切ではない。失敗の責任を問われ、弾劾されるのであれば、失敗を知られたくないという気持ちが生じるのは自然なことだ。そうした気持ちは、失敗を覆い隠し、闇に葬り去るという行動を招きがちだ。

 そこで、失敗に対して我々が取るべき態度は、嘲笑や責任追及ではない。それを貴重な結果・経験として尊重することだ。すなわち、失敗の経験を客観的な事実として冷静に捉え、社会全体で共有することだ。であるならば、貴重な失敗が埋もれてしまうことのないよう、慎重に、その行為者を保護して、その経験を共有させるべきだ。そうした考え方は、感染症の蔓延防止のために、ウイルスの感染者を責めることなく、プライバシーを守り、風評被害を防止しようとする考え方と似ている。

 

 近年、我が国の社会では、コンプライアンスの名の下に、法令遵守と、事故が生じた場合の責任追及が厳しくなる傾向があった。法令を遵守しようと心がけるのはよいとして、事故が生じた場合の責任追及が、単に行うべきことがされなかったという義務違反のみに焦点があたり、なぜそれが行われなかったのかという点が十分究明がされなかったのではないだろうか。我々はこれらの点を改める必要があるだろう。個人の義務違反よりも、それを引き起こした、それを防ぐことができなかった構造の抽出に重点を置くべきだ。我々は社会における失敗に対する考え方を改めるべきだろう。

 我が国の近年の社会の閉塞感はこの失敗に不寛容な態度の蔓延も大きな要因ではないかと思われる。社会にあって、実際に行為をすれば確率的に必ず失敗は発生する。したがって、現場にあって最前線で実務に携わる者は必ず失敗の危険にさらされている。失敗をすれば「ありえないもの」として責任を追及され、場合によっては処罰を受ける。失敗をしないために最も安全なのは、その行為そのものを行わないことだ。コンプライアンスとともに、これも近年流行となった成果主義が人々の行動の大きな足枷となっているのではないだろうか。そうした社会の風潮は、その失敗を取り締まる立場の監察部門の組織内での権威を高めることになった。しかし、監察部門がいくら力を得ても、それは過去の行為に対しての対応であって、新しいサービスや製品が生まれることはない。失敗にあまりに不寛容であると、誰も新しいことにチャレンジをしなくなってしまう。これまで経験がない新しい事態に対応しようとするときに、予想しえない事態、はじめて遭遇する事態、事前に気がつかなかった問題などが失敗を通じて明らかになる。それは新しい知見の発見というべきなのかもしれない。新しいチャレンジは社会全体で応援することが必要なのではないだろうか。

 もし過度に失敗を避けようとするならば、行動を起こすとしても、事前に無数に起こりうる状況を想定し、穴ふさぎをやった後でなければ行動に移すことができない。最も効率を目指すならば、基本的な構造をしっかりと作った上で、実際に行動を行ってみて、その失敗をできるかぎり素早く収集し、改修を行うことだ。また、いったん失敗をしてしまうと、それに対するお詫びや「被害」の回復のために、おびただしい労力が投入されることになる。それは、行為に付随するコストの増大につながる。さらに、失敗の「被害」に対する大きな反応は、人々の意識を高め、より問題の鋭敏化に拍車をかける。

 我々は、失敗に対する見方を改め、もっと失敗に寛容な社会をつくる必要があるだろう。失敗に厳しい社会は、結果的には、社会の現場で従事する国民の就業環境を害することにつながる。その負担は、現場に近い者に対して大きく、現場に遠い者に対して少なく、不均等であることに注意が必要だ。真に憎むべきは偽造や捏造、虚偽、意図的な不正だ。意図せざる失敗には寛容であるべきだ。