ネット上での言論のルールについて

 最近、ある社会問題についてタレントや俳優などの芸能人から多くのツイートが発せられた。それに対して、その意見に対する反対派を中心に非難が多く寄せられた。否定的な意見に多かったのは、内容について論じるものではなく、「何も知らない芸能人が」など、芸能人が政治的意見を述べること、何も知らない者が発信することなど、一刀両断、頭ごなしに、その発信が無価値、無意味であることを印象づけるものであったたように思われる。

 この問題について、どのように考えるか。

 我が国は民主主義を標榜する国だ。言論の自由が保障されているのだから、発信すること自体は非難されるべきことではないだろう。どういう立場の者であれ、公序良俗に反しない以上、自由に発信することが保障されなければならない。

 発信が自由に行われるためには社会全体で一定のルールが必要だろう。

(1)誰が発した意見であるかによってその価値を高めたり、おとしめたり、発信者の属性を理由に評価をしてはならない。

(2)意見に対しては、その内容に対して論じるべきであり、発信者の人格を攻撃したりするものであってはならない。

(3)発信者は、発信を理由に不利益な取り扱いを受けることがあってはならない。

 このあたりが最低限守られるべきルールだと思う。

 

 最近、社会全体で人権に対する意識が少しずつではあるが、変化してきているように思われる。例えば、会社などの組織内における「パワハラパワーハラスメント)」というものの存在が認識されるようになった。以前は、職場で上司が部下に暴言を吐くこと、ときには暴力を振るうことさえ問題視されることはなかった。また、学校内で、教師の生徒に対する体罰、部活動での上級生の下級生に対するいじめなども許されないものであると認識されるようになってきた。我が国の社会は、上下関係を重んじる封建時代の名残を色濃く残しており、民主主義、人権の尊重といいながら、単なるお題目として、真に身についたものではなかったのだろう。しかし、徐々にではあるが、そうした行為は許されないものとして認識されるようになってきた。パワハラの是正については、この6月にパワハラ防止法が施行されるところだ。

 ネット上の言論におけるルールの問題は、パワハラの問題とよく似ている。何がパワハラに当たるのかという判断において、上司の適正な指導とパワハラを分ける境界線は、それが業務の必要性から適正で合理的であるかどうかという点にあり、たとえば部下の行為そのものに対する合理的な指導は認められるが、それが部下の人格への攻撃に及ぶような場合はパワハラと認定される。

 ネット上の言論もこれと同様に考えるとわかりやすい。すなわち、発言そのものの誤りや事実誤認をただすのは正当であるが、その発信者がバカだとか不勉強だとか、まして芸能人だからとかいうのは、発言の内容にかかわらない、人格に対する攻撃、つまり「ハラスメント(いやがらせ)」に当たり、許されないと考えるべきだろう。ハラスメントを行っても、議論を深める効果はないだけでなく、発信を委縮させ、ひいては発信する権利を損なうことにもなってしまう。

 こうしたハラスメントに当たる批判に対しては、皆がルール違反であるという認識を持つようにし、そのような発信自体が許されないとの姿勢を共有することが必要だ。また、発信を理由に発信者が不利益な取り扱い、「干される」ことがあってはならない。そのような取り扱いは許されないことであるという社会の共通認識を醸成することが必要だ。

 こうした、言論ハラスメントを許さない、認めない社会風土をつくることが、我が国の言論を活発にし、社会がより健全に発展していくことにつながるだろう。