新型肺炎の流行について(19)

 緊急事態宣言の一部解除が発表された日の翌日の5月15日、久元神戸市長のtwitterに次のようなツイートがあった。

 withコロナの時代の「新しい生活様式」では、遠出は避けられ、身近な生活空間での移動にシフトしていくのではないか。そこで改めて注目されるのが自転車です。政府の対処方針でも自転車通勤に言及されている。自転車をより賢く、便利に使えないか、行政として何ができるのか、検討を始めたところです。

 新型コロナウイルスの排除はもはや不可能な状況となり、それを前提にした「新しい日常」と、それに応じた「新しい生活様式」がうたわれはじめ、新型コロナウイルス拡大前と拡大後は異なる世界であるとして、「ポストコロナ時代」や、新型コロナウイルスとの共存という意味合いを持つ「withコロナ時代」という言葉まで現れた。

 それはどのような時代なのだろうか。簡単に言うと、人々は外出する際にはマスク着用が義務となり、対面で会話を行うことは避けるべきこととなり、大勢の人間が同じ場所に密集して同じ時間を過ごすことも許されないというような状態である。感染の拡大を防ぐため、県境、国境を自由に越えることは許されなくなる。つい、数ヶ月前には、人々は自由に国境を越え、直接、世界中の人々と交歓したり、自分の目で世界の文物に触れることができていたのに・・・。

 しかし、マスクを着用しなければ、外出もできない、そうした道具を用いなければ外気を直接呼吸することもできない、人々が自由に集合できず、自由に移動もできないというのを「新しい日常」とする考え方はいかがなものだろうか。

 これまで、人類は、(人類だけではなく、すべての生物は、)自らの呼吸器を外気に直接触れさせて呼吸をして生きてきた。それが自由にできないというのは、まさしく異常事態なはずだ。だから、これらの対応は、あくまで緊急対応であって、この状態を「新しい日常」と呼び、新型コロナウイルスとの共存を唱える「withコロナ時代」などというのはとうてい受け入れられる考え方ではない。最終的に目指すべき姿は、ワクチンの開発や、時間がかかっても集団免疫の獲得による、マスク不要の日常を取り戻すことだ。 

 そこで、久元神戸市長のツイートであるが、「withコロナの時代の「新しい生活様式」では、遠出は避けられ、身近な生活空間での移動にシフトしていくのではないか」との趣旨である。

 市長は、それでもよいと考えているのだろうか。しかし、それを受け入れるためには、どれだけ巨大な犠牲が生じるのだろうか。交通機関が自転車に置き換わる程度の話なのだろうか。神戸は、交通の要衝として、世界や国内各地との物流、交流の拠点として発展してきた都市なのだから、こうした状況は神戸という都市の存亡に関わる事態だ。今回の感染拡大は、公共交通機関に多大な損害が発生している。とりわけ航空産業は需要の9割減など、壊滅的な状況である。神戸を西の拠点としてきたスカイマークも、神戸空港では現在一日わずか4便の運行にすぎず、危機的な状況におかれている。スカイマークが行き詰まれば、神戸空港も行き詰まる。そうなれば、神戸市全体も行き詰まる。もはや、バスターミナル建設、三宮再開発どころではないだろう。久元市長はそうした状況をどのように考えているのだろうか。多くの人々や産業の苦境に痛みを感じないのだろうか。なんとかしようと考えないのだろうか。これでは、まるで評論家だ。市長のこのような発言は、なんとか持ちこたえようとしている人々にはどのように聞こえるのだろうか。

 

 

 また、5月14日、久元市長は自らのブログに次ぎのような文章を掲載してた。

里山居住ーコロナ時代の新しい暮らし方ー

(前段略)

 新型コロナウィルス感染症という未知の存在との遭遇は、自然との共生に関する価値を高めると想定されます。
 里山、神社仏閣などの文化遺産を、家族や少人数で巡ることは、感染リスクも少なく、心身ともに健やかな時間を与えてくれることでしょう。
 感染が収束するポスト・コロナの時代においては、集積が集積を呼ぶ東京など大都会の集住の見直しが進み、市街地、農村・里山地域それぞれの特性に応じた「新しい生活様式」の確立が求められることになるでしょう。
 目の前の現実とたたかうともに、これらから何が起こるのかを見据えた都市戦略が大事です。

久元きぞうブログ 2020/5/14

 もしそのような事態になれば、東京だけの問題ではなく、現在の都市そのもののあり方の否定であり、その場合には神戸も同様で、もはや「都市戦略」どころではないだろう。

 「新しい日常」を作り出すことを考えるのではなく、一日も早く「従来の日常」を取り戻すことに全力を上げるべきだ。その「従来の日常」を取り戻すための手段として、「新しい日常」を考えるべきだ。「これはできないが、こうすればできる」という具合に。それを超えて、「新しい日常」を夢想していることに、強い違和感を感じる。