都市における文化産業の役割

 人類の歴史を、ごく大まかにとらえてみるならば、生産力の発展としてとらえることができるだろう。生産力は、初期には人々の生存を維持するだけで精一杯という水準で、 時によっては生存の維持に必要な量すら満たすことができず、結果として生存数の増大を常に制約し続けてきた。

 状況が変わるのは産業革命である。化石燃料の利用が始まり、科学技術の発展により農薬や科学肥料が発明され、農業生産は飛躍的に増大し、人類はほぼ飢えから解放されるようになった。工業技術は発展し、あらゆるものの生産が機械化され、従来では為しえなかったような大量の品物を生産することができるようになった。その結果、人々の生活に必要なものが十分供給できるようになった。

 コンピュータが発明され、小型化、高性能化が進み、世界中の人々が高性能のパーソナルコンピュータを持つことができるようになり、また通信技術の発展は世界中の人々に同時に情報が流れることになった。こうした科学技術の発展が、さらなる科学技術と生産力の発展をもたらすという循環が生まれ、科学技術の発展のスピードは日々加速している。

 現在の人類は、人々の生存に必要なものを供給するというレベルには既に到達している。今後は、生存のために生産に投入する労働時間の割合は減少し、人々が有する時間のうち、生存に必要ではないものに充てられる時間の割合が高まっていくと考えられる。人類は、太古から人々を縛り付けていた労働から解放され、自由な時間を持ち、自由な活動、いわゆる余暇を持つことができるような段階に到達したのだ。

 その自由な時間は、娯楽や文化活動に向かうことになるだろう。

 文化は、過去の時代には、社会の富を一手に収める王侯貴族が庇護者となって支えてきた。彼らの宮殿や衣装、娯楽、これを供給するために、お抱えの建築家、芸術家、芸能人として存在してきた。当時の生産力はそれら以外の形態を許さなかったのだ。生産力は低かったが、当時の社会の余剰を一点に集中させることにより、壮大な芸術が構築された。

 今や文化の消費者の中心は大衆である。大衆が買い求める、その僅少な代金のチケットが大量に販売されることになり、それが巨額の資金となって制作者に流れるようになっている。こうしたシステムができたことにより芸術や文化はもはや大衆のものになった。文化は産業となったのだ。

 文化が大衆のものになったということは、文化の質が劣化したということを意味するものではない。文化の需要者が、昔の王侯貴族から大衆に変わっただけだ。それは文化の質の良否とは直接の関係はない。むしろ、消費者が世界規模に拡大することにより、その生産者も世界レベルでセレクトされることになり、レベルの向上が著しいように思われる。

 現代の文化は、文化産業の中で存在している。それが、いかに世俗的な姿をまとっていても、世界的な選抜の中から勝ち残ってきた、世界最高水準のものなのだ。一般の人々の日常生活の延長線上のような文化もあるのだが、最も上質な世界最高水準の文化は文化産業の中で養われ、提供されることになるのが現代だ。

 古くからあるクラシカルなものにしか価値を認めない傾向が一部にはあるが、それは根拠がないことだ。文化に対する見方を改める必要がある。静かに、上品に文化を鑑賞するばかりではない、騒然とした中で提供される中に世界水準の文化がある。

 ネット時代になったが、生の文化に触れる体験の価値は失われず、むしろ再認識されるようになり、コンサートも大規模化している。ホールではなく、スタジアムを使ったコンサートは珍しくなくなった。それは、生活水準が全般に高まり、文化に触れられる層が拡大しているからだ。

  昔は、王侯貴族の宮殿で文化が花開いた。現在では、文化の舞台は宮殿ではなく都市だ。なぜならば、大衆が集まりやすいところであることが必要だからだ。大衆の動員を可能とするのは交通だ。都市は、今後、ますます、文化産業の舞台としての役割が高まっていくことになるだろう。文化産業をいかに育てるのかが今後の都市の盛衰を決めることになるだろう。