「BE KOBE路線」の限界

 現在の神戸市の都市戦略は、大まかに言うと、神戸の中に既にある、すぐれたものを掘り起こし、それを宣伝することにより都市の振興を図ろうとするものということになるのではないか。それを表すのが「BE KOBE」という言葉で、「神戸の魅力は人である」という意味のようだ。神戸市の、この戦略方針を仮に「BE KOBE路線」と呼ぶ。

 現下の神戸市の課題は、震災で出遅れ、都市間競争の中で遅れを生じつつあるところを、後れを取り戻し、将来に向かって再び大都市としての立ち位置を確立することであると考える。

 「BE KOBE路線」は課題の解決の有効な戦略だろうか。この路線は、実は、多くの市町村が採用している、町おこし、村おこしの戦略だ。だから、最近の神戸市の施策を見て、町おこし、村おこしの施策の寄せ集めであると感じるのは、あながち間違っていない。

 競争している中では、相手も同様に走っている。だから、相対速度が問題となる。他より早く走るなら他を抜きん出ることができるが、いくら自分では走っているつもりでも、相手と同じスピードであれば止まっているように見える。同じ方向に進む列車が並走する場合に、片方から見て他方が止まっているように見えるのと同じ理屈だ。

 神戸の中に他に見せるべきものはないわけではない。灘の酒、神戸ビーフ、六甲山の眺望 等々、いずれも素晴らしいものである。だが、それらは、国内他都市の資源と比較して、圧倒的な優位があるものだと言えるだろうか。それらは、他を圧倒する段違いの素晴らしさというわけではなく、単に個性の相違のレベルなのではないだろうか。

 現状のBE KOBE路線というのは、神戸は他の都市よりも格段の比較優位があるという仮説のもとにしか成り立たない。しかし、それは根拠がない。この前提が成り立たない以上、BE KOBE路線は、現下の神戸市の課題に対する適切な答でない。つまり、都市間競争の中では止まっているのと同じことだ。神戸の中に既にあるものを見せるのではなく、神戸の外にあるものを呼び込むことが重要だ。その舞台を提供することが大事だ。

 神戸の街は、神戸の土着の人たちではなく、外からやってきた人たちがつくった街だ。外から人が自由に入ってきて、余所ではできないことを神戸で実現した。これこそが、神戸の歴史だ。しかし、「BE KOBE」は、神戸の中にあるものに光をあてようとする。それは、神戸を現状を保存し、固定しようとする傾向も生み出しやすい。景観条例もこうした傾向の一つだろう。

 神戸の中に既にあるものを見せるのではない。神戸の外にあるものを呼び込み、神戸の場所で見てもらうのだ。神戸の地理的優位性、交通の利便性を生かして、その活動の舞台を提供する。これが、神戸の存在価値だ。それは、「BE KOBE路線」と対極にあるものだ。