神戸駅前広場再整備基本計画(素案)の公表について

 神戸市は10日、JR神戸駅前広場の再整備基本計画の素案を発表した。歴史ある駅舎や近くの湊川神社の景観を生かし、風格と居心地の良さを兼ね備えた広場に再編する。バスロータリーや駐輪場など各施設の配置も見直して回遊性を高め、周辺エリアの活性化にもつなげる。

神戸新聞 2021/6/10)

 

 6月10日、神戸市が JR神戸駅前広場の再整備基本計画の素案を発表した。

 素案の概要は次の通りである。

 

神戸駅前広場再整備基本計画(素案)概要

(1)基本計画の前提条件
  ・概ね2030年以降の姿を想定した計画
  ・再整備の範囲は、JR神戸駅前広場
  ・駅前広場を人が主役の空間に再編
  ・神戸駅舎は現状を前提
  ・神戸駅周辺の活性化に必要な施策は、整備対象区域外においても適宜実施
(2)再整備のコンセプト
  『駅前広場がつなぐ、人とまち。~神戸“湊”劇場~』
   神戸の名を冠する、歴史ある神戸駅
   駅を出た時からはじまる、まちを舞台としたストーリー。
   暮らす人、訪れる人、“湊(あつ)まる”誰もが主役。
   神戸という舞台へ誘う駅前広場を新たな憩いや交流、コミュニケーションの生まれる拠点として刷新します。
(3)目指すべき方向性
  ① 高質で風格のある景観整備
  ② スムーズかつ安全・安心な交通機能整備
  ③ 周辺地区への回遊拠点としての整備
  ④ “人”中心の広場の管理運営

(4)神戸駅前広場再整備基本計画(素案)

(出典 2021/6/10 神戸市記者発表資料)

 

神戸市:神戸駅前広場再整備基本計画(素案)の公表 ~神戸駅前を見違える空間に~ (kobe.lg.jp) 

 

 JR神戸駅は日本鉄道史上に輝かしい歴史を誇る駅だ。東海道本線山陽本線という二大本線のターミナルであったからだ。今でも、神戸駅の構内にはそれを示す柱標が立っている。

 余所から神戸を訪れる者は、「神戸駅」の名を聞けば、この場所こそが神戸の中心であると思うに違いない。しかし、実際に神戸駅の地に降り立つと、そのイメージの隔たりにとまどうことだろう。

 神戸駅周辺にどのような位置づけを与えるかは非常に難しい問題だ。その難しさは、神戸駅周辺の統一感のなさに現れている。神戸を代表する神社の一つである湊川神社神戸地方裁判所神戸地方検察庁とその周辺に集積する法律関連事務所群、神戸文化ホールや大倉山中央図書館、中央体育館という大規模な都市施設、元町商店街や新開地商店街、神戸大学医学部、そしてハーバーランドの観光施設群とまさにモザイク様の状況となっており、これに何か統一的な性格を規定することは困難だろう。

 なぜ難しいかというと、元々、神戸駅の場所そのものが自然発生的に生まれた都市の中心部ではなかったからだ。神戸は開港後、古くから港町として栄えていた兵庫と少し離れた場所に外国人居留地が設けられたところから飛躍的な発展が始まった。この外国人居留地の最寄り駅が三ノ宮駅で、これがいわゆる狭義の「神戸」であり、古くからの瀬戸内海航路の中心地として栄えた兵庫とが双方とも繁栄している状態にあって、その両者の中間地点にあたる場所に神戸の中心地として選ばれたのが現在のJR神戸駅だ。その後、兵庫が衰退してしまったため、都市の中心として予定された現在の神戸駅は、いつの間にか都心の外れになってしまった。その結果、「神戸」の名前にふさわしく都心的な施設も立地されたが、神戸駅周辺の位置づけが定まらないままに、神戸駅の輝かしい歴史と、豪華な駅舎が取り残されたような姿になってしまった。つまり、兵庫と神戸との中間地点という地理的属性と、「神戸」という看板を背負ってしまったが故に、このようなモザイク状の地区が生まれてしまったとも言えるだろう。

 

 都市の整備をしようとするなら、やはり、その場所に対して機能、位置づけを与えなければならない。現在の神戸の中心は三宮であることは間違いなく、官公庁やビジネス街、大規模な商業施設は三宮に集中しており、三宮は近距離、中距離、長距離交通の結節点であり、名実ともに神戸の都心である。それに対して、神戸駅周辺は、一時は交通の中心地の様相を呈していたことはあったが、現在はその地位を失ってしまい、もはや三宮と同様の方針で整備することは不可能だ。

 では、神戸駅周辺にどのような位置づけを与えるべきだろうか。それは神戸観光の起点(終点)という位置づけであると考える。地図を見ると、神戸駅の東側にハーバーランドが海に突き出し、都心に隣接した海を見渡せる観光スポットとしてモザイクには大勢の観光客が集まっている。神戸ほど、都心に隣接して海がある都市はない。海は神戸にとって最大の観光ポイントだ。今後、このハーバーランドから東へ、ポートタワー、メリケンパーク、新港突堤と観光地が順次整備されていくことになると思われるが、この区間における交通手段が必要になる。その交通手段は、ハーバーランドとみなとのもり公園との間を結ぶシャトルバスのようなものとなるだろう。ハーバーランドはその交通手段の西の起点として観光客を送り出す場所もしくは観光を終えた観光客を回収する場所ということになるだろう。神戸駅はそのハーバーランドへのアクセスポイントということになる。神戸駅周辺にはJR、阪急、阪神神戸電鉄、地下鉄海岸線などの交通機関が集積している。そして、JR神戸駅は、新快速電車が停車するという素晴らしい交通条件を有している。また、ハーバーランドには大規模な駐車施設が整備されており、現在でも遠方からの乗用車による観光客が多く集まっている。ちょうど、都心では車両の乗り入れを抑制する方向で整備が進められているので、ハーバーランドパークアンドライドの拠点となるだろう。そうした、都心へ向かう観光客を受け入れるゲートが神戸駅周辺の役割だと考える。

 このような位置づけを踏まえて、神戸駅周辺の整備を考えてみたらどうだろう。

 やはりハーバーランドへのアクセスを改善することが大きなテーマとなるだろう。特に駅の北側、地下鉄大倉山駅から神戸駅ハーバーランドへの導線は見通しが悪く、短い道路が入り組み、往来が不便だ。大倉山駅からハーバーランドへの最短のルートは湊川神社の東側の筋(神戸駅前線(下図 青色の矢印))であり、これをハーバーランドへのメインルートと位置づけ、整備してはどうだろうか。大倉山駅からJR神戸駅まで一体的に整備して、メインストリートであることが視認できるように見通しを確保し、可能であれば最短ルートとなるよう地下道を整備してもよいかもしれない。現在、タクシー乗り場が神戸駅との間を塞ぐ形になっているが、タクシー乗り場は直進を妨げないように移設するのがよいだろう。導線が改善すると、人の往来が増える効果が得られるかもしれない。駅の周辺には神戸観光の出発点として降り立つ人、観光を終えた人に向けてのホテルやサービス施設、観光客向けの土産物の販売店兵庫県の特産品を販売し、工芸や文化を紹介する物産館を設置するのもよいかもしれない。

 また、神戸駅周辺の観光資源の開発として、鉄道車両の製造が神戸の重要な地場産業であることも合わせて、神戸駅の輝かしい歴史的位置づけを記念する鉄道記念館のようなものを設置してはどうだろうか。

 さらに、神戸駅は、兵庫運河、兵庫県が建設する「初代兵庫県庁」や能福寺の大仏などの観光の起点としても重要なポジションにあるだろう。

 このような、神戸観光の起点をテーマに周辺を整備するのがよいのではないか。もちろん、湊川神社も重要なランドマークなので、見通しを確保することはよいことだ。

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 ところで、再整備基本計画(素案)では、再整備のコンセプトを『駅前広場がつなぐ、人とまち。~神戸“湊”劇場~』としているが、下町の演芸場のようだ。もっとスマートなコンセプトはなかったのだろうか。神戸駅周辺のイメージを歪めるものだ。

 

東京五輪開催を巡る動き

 東京五輪をめぐり、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が3日に「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言したことが、与野党に波紋を広げている。

 尾身氏は2日にも国会で、「普通は(五輪開催は)ない。このパンデミック(世界的大流行)で」と指摘。「そもそも五輪をこういう状況のなかで何のためにやるのか。それがないと、一般の人は協力しようと思わない」と注文をつけていた。

 与党内には受け止めの温度差が見られる。公明党北側一雄・中央幹事会会長は「ご指摘はその通り。菅首相は五輪の意義を国民に改めて説明していただきたい」と語った。一方、自民幹部は「ちょっと言葉が過ぎる。(尾身氏は)それ(開催)を決める立場にない」とし、「(首相は五輪を)やると言っている。それ以上でも以下でもない」と不快感をにじませた。

(2021/6/3 朝日新聞

 

 東京五輪をめぐり、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が3日に「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言したことに対して、与党内で批判の声が上がっているようだ。

 尾身会長の立場は、公衆衛生の専門家として、新型コロナウイルス感染症対策について、科学的な分析に基づき、良心に従って、見解や意見を述べることにある。だから、その意見は周囲の者にとって必ずしも好ましい意見だとは限らないだろう。しかし、だからこそ意味があるのであって、最初から結論ありきで、その立場を放棄してしまうなら、そのような専門家の存在意義はない。もちろん、最終的な結論は、公衆衛生の観点だけではなく、社会や経済、その他の視点も考慮して総合的に、民主的に選ばれた権限がある者が下すことは当然のことだ。しかし、それは全くフリーハンドというわけではなく、多くの国民を納得させるだけの理由を明示して行う必要があるし、その結果生じる事態について最終責任を負わなければならない。

 にもかかわらず、専門家が意見を述べることに対して、批判の声が起きるのはどういうことだろう。

 それらの批判を行う者は、オリンピックを開催したい者に違いない。ただ、それに伴う責任を負いたくないのだ。つまり、みんながオリンピックの開催に賛成していたという状況の中で開催を決定したいのだ。だから、誰にも反対の声を上げてほしくないということだろう。しかし、本来、責任は最終決定権者が負うべきものなのだが、その責任を放棄している。これは無責任というものだ。この責任を負わずして、最終決定権者、すなわちトップの座に居座り続けたいのが彼らの思惑なのだ。つまり責任をうやむやのままに、自らの思いのままに方針を決定したいのだ。最近の政治家は、「責任はすべて自分にある」と口にするが、それはどういう意味なのだろうか。本来、政治的に責任を負うということは、最終決定権者が、その結果を自分が招いたものとして一手に引き受け、非難に甘んじ、自らの誤りを認め、最終的にはその地位を追われるということだ。しかし、政治家が口にする「責任」は、そのような重みを持つものではないようだ。

 自らの意見、自重したり遠慮したりすることのない、自由な意見を皆が公に表明し、議論を通してその中で誤りのない結論を得て、全構成員が共通の理解と意思をもって社会を運営していくのが民主主義のあり方だろう。特に、これは科学の分野においてはきわめて重要だ。科学の分野、すなわち物理現象や化学現象は、同一の条件ならば同一の現象が必ず発生する。(だからこそ、実証が可能なのだ。)人間は忖度するかもしれないが、物理や化学は忖度しない。だから、希望的観測だけで物事を運ぶと、手痛いしっぺ返しを食うのだ。だから、科学の分野では、決して忖度して事実を歪めてはならない。しかし、我が国の社会はこうした過ちを犯しやすい傾向がある。

 今回は、たまたま、尾身会長は自らの立場に従って意見を表明したが、冒頭の報道が伝えるような批判を受けることを恐れたり、自らの地位が脅かされたりすることを懸念すると、自発的に自らの意見を封じて、大勢に従ってしまうことが起きる。これがすなわち忖度というものだ。

 では、どうしてこのような発言の自粛が起きるかというと、発言をすることによって有形無形の不利益があるからだ。本来、民主主義国である我が国は、発言によって不利益を生じるようなことは許されないはずだ。それがすなわち言論の自由というものだ。しかし、これが保障されておらず、反対意見を述べたがために更迭されたり、どこからともなく現れる夥しい批判(暴言)の嵐に晒されるのが我が国の現状のようだ。

 意見の是非はともかく、もっと自由な発言を尊重するべきだろう。特にマスコミも自分たちの報道の自由に対して敏感に反応するだけではなく、言論機関として社会全体の自由な言論の保障に対しても、もっと敏感であるべきで、意見を封じる動きに対して毅然とした態度を示すべきだろう。

 

新型コロナウイルス禍 繰り返される「失敗の本質」

  日本の新型コロナウイルスワクチン接種の遅れが際立っている。英オックスフォード大などによる16日までの調査で、少なくとも1回投与された人の割合は約3%にとどまり、世界平均の約9%に及ばない。接種体制の整備遅れから、発展途上国レベルの世界110位前後に低迷。接種が進み、普段の生活を取り戻しつつある欧米とは対照的だ。

(2021/5/16 東京新聞

 

 このたびのコロナウイルス禍は、本来、比較対照が難しい世界各国の行政の能力と実績が横並びで比較される希有な機会であった。我が国はこれまで、世界有数の経済大国として、先進国、技術大国を標榜してきた。このたびのコロナウイルス禍でも、その当初には、衛生観念が高く高度な医療技術を誇る我が国であれば、少なくとも他の国々よりも上手く対応できるのではないかという、ある意味、過信というか、暗黙の信頼感があったように思う。ところが、いざ蓋を開けてみると、政府の中途半端な後手後手の対応、 「gotoトラベル」などのちぐはぐな対応が目につき、その挙げ句、ワクチンの接種率は、世界110位前後と、ほとんど発展途上国並みの数字で、我が国の自画像に対する認識を改めなければならない程だ。

 この光景は既視感のある光景だ。

 それは太平洋戦争における光景だ。明治維新後、日本は富国強兵に努め、日清、日露の両戦争に勝利し、その後の第1次世界大戦でも戦勝国側となり、国際連盟においてイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国となり、アメリカを加えた5大国の一員として、世界の「強国」の仲間入りを果たした。そのような輝かしい「強国」であるはずの我が国が、太平洋戦争が始まる頃にはいつの間にか内実が著しく劣化し、いざ、太平洋戦争が始まってみると、物資の貧窮と技術水準の低さで、竹槍で爆撃機を撃ち落とそうとするような悲惨な姿をさらすことになり、ついには国土は焦土と化してしまった。

 このたびのコロナウイルスへの我が国の対応を見ていると、先進国であったはずが、いつの間にか劣化してしまっていた80年前の姿を思い起こさせる。まさに歴史は繰り返すようだ。

 

 どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。こうした失敗を繰り返すのは我が国の社会に存在するなんらかの構造に原因があるのではないか。

 それは、我が国の社会構造の特徴に求められるのではないかと考える。

 その特徴とは、我が国の社会の二重構造である。我が国は近代的な姿をまとっているが、その基礎は封建的な未だ前近代的な社会だ。つまり、表面的な社会は資本主義体制下にあって、近代的な合理性が貫徹する競争社会で、その中にあって受験競争や職場や企業間の競争など、互いが切磋琢磨をする社会であるが、その裏側には情実や縁故、封建的な身分の上下の意識などが払拭されずに根強く残っている。明治維新や太平洋戦争後には、そうした旧体制がいったん破壊されてしまったから、より合理的、競争主義的側面が伸張したが、安定期に入ると元来の古い体質が頭をもたげ、情実や縁故に基づく合理性のない人事や組織運営が横行するようになり、役割に適した人物がその地位に就くことが少なくなってくる。

 今回のコロナウイルス禍でも、非常に厳しい状況が続く中にあって現場の医療関係者や行政機関の職員等の高い職業倫理に基づく、献身的な奮闘が伝えられている。にもかかわらず、どうして全体としてはうまく対応ができないのであろうか。それは、おそらく、非常時というものは通常の組織の権限の範囲内で処理できるものではなく、その枠組みの組み替えや優先関係の見直しが必要なのだ。これを行うのは、組織の上層部や政治家の役割になるのだが、我が国はこの辺りの機能が決定的に弱いのだと考えられる。上層部に権限が与えられていないわけではなく、その権限を振るう能力を有していないため、このような枠組みの組み替えや優先関係の見直しができないのだ。その結果、平時はそれでも問題がないが、非常時にあって「現場任せ」になってしまう。こうした場合には「現場の独走」ということも一つの解決策なのかもしれないが、現在の日本ではコンプライアンスの強化によってそれも許さない仕組みになってしまっているので、結局、非常時にあっても通常どおりの機能しか発揮できないのだ。これが現在の我が国の社会、特に行政機構の機能不全のメカニズムだと考える。

 こうした構造を持つ社会は、根本的な枠組みの変更を行うことが不得手だ。我が国の社会が全盛期には世界有数の隆盛を示すものの、いつの間にか劣化し、世界の趨勢から遅れをとることを繰り返すのは、これが原因だと考える。

 さらに、悪いことに、ここ10年ほど政治主導と称して政治家が人事権を武器に我が国の官僚機構を支配していた。「日本を取り戻す」をスローガンに、「戦前への回帰」を目標に、戦前のような藩閥や財閥、血縁や地縁による特定のグループが社会の権限を恣にする社会の復活を目指すものであった。その結果、社会のいたるところに、情実や縁故、忖度による行政や人事が横行し、本来合理的に行わなければならない適材適所の人材配置が行われなくなり、行政機構の劣化が著しく進行したのではないか。

 本来であれば、行政機関は一般市民より高度の情報を入手する立場にあり、それに基づき、一般市民よりも先んじて適切な方針を打ち出していかなければならないはずだ。だから、一般市民は、行政の決定・発表をもって、その先行きを知るようなことが普通であるだろう。しかし、現在は、一般市民の方が情報に詳しくなり、こうあるべきだというのが誰の目にも明らかになっているのにもかかわらず、行政の方が一向に必要な施策を打ち出さない。それが、すなわち行政の「後手後手」の姿だ。それに比べて欧米では行政機関の優越は機能しているようだ。その結果、我が国では海外のニュースから国内の姿を知らされるようなことも起きている。つい先日も、アメリカの国務省が我が国に関する渡航情報を最も厳しい「渡航中止の勧告」に引き上げたことが報道され、驚かされたのがその例だ。

 アメリ国務省は日本に関する渡航情報を4段階で最も厳しい「渡航中止の勧告」に引き上げました。新型コロナウイルスの新規感染者数などをもとに、アメリカCDC=疾病対策センターが日本の感染状況を最も厳しいレベルと判断したことを反映した結果だとしています。

(2021/5/25 NHK NEWS WEB)

 

  「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」とは、ソ連の司令官ジューコフスターリンの問いに対して発した言葉だ。これは戦前の日本社会の弱点をよく表している。この言葉は果たして過去のものとなったのだろうか。

 

久元神戸市長、3選立候補への動き

 任期満了に伴う神戸市長選(10月0日告示、同24日投開票)で、市内の70以上の各種団体が近く、現職の久元喜造氏(67)に対し、3選に向けて立候補を要請することが26日、分かった。来月1日以降、団体の代表者らが申し入れ、久元氏が立候補要請書を受け取る見込み。久元氏は現時点で去就を明らかにしていないが、市会の自民、立民、公明、国民などの会派も支援する構えを見せている。

(2021/5/27 神戸新聞

 

 今年10月に任期満了を迎える神戸市長選において、市内の70以上の団体が現職の久元喜造氏に対して3選出馬を要請すると27日、神戸新聞が報じた。前回2017年は最終的に146団体の要請があったようだ。現時点で他に立候補表明者はいないが、共産党系の候補者擁立のほか、7月の県知事選で候補者を推薦予定の日本維新の会の動向が注目される。

 現職の久元市長は、1期目から公約に掲げた都心の活性化について未だに有効な政策を打ち出せていない。特にJR西日本の新三ノ宮駅ビル計画が白紙になるなど、就任から8年になるこの期にいたって、計画すら立っていないという誰もが予想だにしなかった状態が生じており、この点についていえば、とても合格点というわけにはいかないだろう。しかし、昨年(2020年)からのコロナウイルス禍のため、日本全体、世界全体が大混乱に陥り、人々の目がコロナ問題に注がれているため、これが第一の争点になることは考えにくい。候補者擁立があるかもしれない維新の会についても、このたびのコロナウイルス禍で、これまでの公的部門をスケープゴートにする手法の問題点が広く認識されるようになっており、神戸市民の全面的な支持を集めにくいだろう。

 結果としては、久元市政については、批判は少なくないと思われるが、現在の状況は基本的な行政を地道にこなす能吏のイメージの久元市長の再選に有利に働くと思われる。

 

新型肺炎の流行について(45)

 アメリカのジョー・バイデン大統領は26日、新型コロナウイルスの発生について改めて調査するよう情報当局に指示した。(略)

 バイデン氏はこの日発表した声明で、情報当局に対し、これまでの「倍の努力をして」90日以内に報告するよう求めた。

(2021/5/27 BBC NEWS JAPAN)

  バイデン大統領は就任後、新型ウイルスの起源について、「人間が感染動物と接触したからなのか、それとも研究施設の事故によって出現したのか」という点について報告書の提出を指示していたが、その報告書が今月提出され、それを受けて「追加報告」を指示したとのことだ。

 声明によると、「今日をもって、アメリカの情報当局は結束し、可能性は高いが明確な結論が出ていない2つのシナリオについて調べる」として、「倍の努力をして情報を収集、分析し、決定的な結論に近づき」、90日以内に報告するよう関係機関に求めたとのことだ。

 

 これに対して中国が反発している。

 アメリカのバイデン大統領が、新型コロナウイルスの発生源の再調査を情報機関に指示したことについて、中国外務省の趙立堅報道官は、27日の記者会見で「WHO=世界保健機関の調査チームが、研究所からの流出の可能性は極めて低いとする報告書を公表していて、これが権威ある科学的な結論だ。アメリカは、事実を意に介さず、中国に汚名を着せ、責任をなすりつけている」と述べ、非難しました。

(2021/5/27 NHK NEWS WEB)

 

 バイデン大統領の声明は、「倍の努力」、「決定的な結論に近づき」、「90日以内に報告」と、かなり強い姿勢であることが伺われる。WHOは先に「研究所からの流出の可能性は極めて低い」との報告書を公表しているから、事を穏便に済ませようと考えるなら、あえて再調査をする必要はないはずだ。今回、再調査を行うということは、WHOの結論に納得していない、むしろ既にそれとは異なる結論の心証を掴んでいるのではないかと思える。今後、決定的な結論が得られた場合、その結論の内容によっては、重大な事態が生じることも予想される。中国の反発も、その結論を予想するかのようだ。今後の事態の推移が注目される。

 

 また、新型コロナウイルスの変異株についての情報も報道されている。

 ベトナムのロン保健相は29日、インド型の新型コロナウイルスの変異株に、英国型に含まれていた変異が加わった新たな変異株が確認されたと明らかにした。現地オンラインメディアのVNエクスプレスが伝えた。

 新種の変異株は複数の感染者の遺伝子解析から見つかった。ロン保健相は新たな変異株について、「これまでの変異株よりも空気中での感染力がはるかに強い」と説明している。

(2021/5/29 朝日新聞

 

 新型コロナウイルスは本当にやっかいな性質だ。人類は、これを克服することができるのだろうか。まさに、人類とウイルスの戦争だ。

 

 

 

神の沈黙について

 マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』は、遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする映画である。

 「神の沈黙」という問題は、宗教上の問題で、人々が危機や苦難に直面する時に、全知全能、絶対善の神が、救済を求める人々の祈りに対して姿を現すことなく、何ら救いの手をさしのべず、あたかも「沈黙」しているかのように見えることを言う。

  遠藤周作の小説「沈黙」は、これをテーマに書かれた作品だ。この小説では、それは沈黙しているのではなく、神が人間とともに苦しみを分かち合っているのだと理解がされている。  

 太古の神は、人間の祈りに対して日々姿を現し、善を実現し、危急の際には敵を滅ぼし、信じる者に対して直接救済をもたらす存在であった。つまり日常レベルにおける解決をもたらす存在であった。しかし、そうした神話の時代にあっても、ヨブ記などのように、信心深い者に対して、次から次へと病や死など不幸が押し寄せることがあり、どうして神はこのような苦難に対して救いの手をさしのべないのかという点が問題となった。しかし、その問題についても、旧約聖書ではその人の人生の間には解決が見られた。つまり、一つ一つの現象についてではなく、もっと長いスパンでの最善、神の意思を理解しようとするという考え方への転換が生まれた。

 そうした聖書の時代を過ぎた頃には、おそらく神の出現は希なこととして、たまたま祈りが通じたように見えた場合にはそれを奇跡として尊ぶようになった。つまりは、それだけ神が姿を現すことが少なかったということだろう。そうした状況では、もはや人生の間には神による救済が得られないため、それに対してなんらかの理由付けが必要となり、人生の期間を超えた数百年単位の一定の時間内での解決が言われるようになってきた。最後の審判というのも、そういう数百年単位の矛盾の解決であろう。

 ところが、世紀末になっても最後の審判が訪れることもなく、現代ではその解決に要する時間はさらに長期化の様相を呈し、いったいいつになったら究極の解決が得られるのか、もはや誰も見通しが持てなくなってきた。もしかすると、それは、数万年、数百万年、数億年単位の時間を要するかもしれないと。

 このようになってくると、神は存在するとして、数億年単位での善を実現する存在、さらには無限の時間において究極の善を実現する存在ではないかとも考えられる。そのように考え始めると、神とは、人間の個人的な善悪とは、まったく関わりのない存在ということになってしまうように思われる。

 そのような存在に対して祈りを捧げることにどのような意味があるのだろう。神は善をなすが、人間の存在をはるかに超える時間であり、人間の思考をはるかに超越するレベルで善を実現する。神の存在を前提するとしても、それは人間の生命とあまりに時間軸が違いすぎて、人間と意思の疎通ができるようなものではないだろう。しかし、神を絶対善の存在であると考えることができるならば、そこに信仰は成り立つだろう。そうした考えに立てば、人間は神に身をゆだねるしかなく、そこから得られる結論は現実にある世界の肯定なのだろう。

 絶対善の摂理の中にいる安心感が、その本質ではないか。

 

 先頃映画を見て上記のようなことを考えた。

失敗に寛容な社会

 我が国の社会は失敗に対して非常に厳しい社会だ。失敗をすれば嵐のような批判、抗議にさらされることになる。そして、こうした失敗に対して最も厳しい批判にさらされているのが、国や地方自治体などの公的部門ではないだろうか。特に、実際に地方で行政を執り行う地方自治体において、この批判が最も厳しいのではないだろうか。

 

 神ならぬ人間である限り失敗はつきものだ。失敗をしたことのない人はないだろう。人間の行為があるところに失敗は必ず生じる。失敗が必ず生じるものだからといって、全く避けることが不可能であったかというと、必ずしもそのようなわけではなく、失敗の原因というのはいたって単純な理由で、少しの注意、少しの工夫があれば回避することが可能であったものが多い。だからこそ、失敗は、あるはずもないものとして異端視され、その行為者は批判にさらされることになる。どうしてそんな簡単なことをしくじるのか、当人以外の人々はそのように感じる。失敗した当人も後から考えると、どうして気がつかなかったのかと強い自責の念を抱くものだ。しかし、それでも発生するのが失敗なのだ。誰もが失敗をする可能性があり、実際に誰が失敗をするかというのはくじ引きで外れくじを引くようなもので、確率的な問題であるとも言える。なぜならば、失敗はその行為に内在する性質、構造に起因するものであるからだ。失敗を防ごうと考えるならば、その性質、構造が何かということを考えることこそ重要だ。その際、失敗はその性質、構造をあぶりだす試薬のようなものだとも言えよう。今まで目に見えなかった構造が、ある失敗によって、ありありと捉えられるようになる。また、あぶりだされた構造は、新たな発明を生み出すきっかけになることもある。「失敗は成功の母」ということわざはこの理(ことわり)を表している。

 失敗が、その行為に内在する性質や構造に由来するならば、失敗は確率的に発生するから、失敗を犯したのはその行為者ではなく自分であったかもしれない。とすると、その行為者の責任ばかりを追及することはあまり意味があることではない。だから、故意や重大な過失ではない原因に基づく失敗を責め立てることは適切ではない。失敗の責任を問われ、弾劾されるのであれば、失敗を知られたくないという気持ちが生じるのは自然なことだ。そうした気持ちは、失敗を覆い隠し、闇に葬り去るという行動を招きがちだ。

 そこで、失敗に対して我々が取るべき態度は、嘲笑や責任追及ではない。それを貴重な結果・経験として尊重することだ。すなわち、失敗の経験を客観的な事実として冷静に捉え、社会全体で共有することだ。であるならば、貴重な失敗が埋もれてしまうことのないよう、慎重に、その行為者を保護して、その経験を共有させるべきだ。そうした考え方は、感染症の蔓延防止のために、ウイルスの感染者を責めることなく、プライバシーを守り、風評被害を防止しようとする考え方と似ている。

 

 近年、我が国の社会では、コンプライアンスの名の下に、法令遵守と、事故が生じた場合の責任追及が厳しくなる傾向があった。法令を遵守しようと心がけるのはよいとして、事故が生じた場合の責任追及が、単に行うべきことがされなかったという義務違反のみに焦点があたり、なぜそれが行われなかったのかという点が十分究明がされなかったのではないだろうか。我々はこれらの点を改める必要があるだろう。個人の義務違反よりも、それを引き起こした、それを防ぐことができなかった構造の抽出に重点を置くべきだ。我々は社会における失敗に対する考え方を改めるべきだろう。

 我が国の近年の社会の閉塞感はこの失敗に不寛容な態度の蔓延も大きな要因ではないかと思われる。社会にあって、実際に行為をすれば確率的に必ず失敗は発生する。したがって、現場にあって最前線で実務に携わる者は必ず失敗の危険にさらされている。失敗をすれば「ありえないもの」として責任を追及され、場合によっては処罰を受ける。失敗をしないために最も安全なのは、その行為そのものを行わないことだ。コンプライアンスとともに、これも近年流行となった成果主義が人々の行動の大きな足枷となっているのではないだろうか。そうした社会の風潮は、その失敗を取り締まる立場の監察部門の組織内での権威を高めることになった。しかし、監察部門がいくら力を得ても、それは過去の行為に対しての対応であって、新しいサービスや製品が生まれることはない。失敗にあまりに不寛容であると、誰も新しいことにチャレンジをしなくなってしまう。これまで経験がない新しい事態に対応しようとするときに、予想しえない事態、はじめて遭遇する事態、事前に気がつかなかった問題などが失敗を通じて明らかになる。それは新しい知見の発見というべきなのかもしれない。新しいチャレンジは社会全体で応援することが必要なのではないだろうか。

 もし過度に失敗を避けようとするならば、行動を起こすとしても、事前に無数に起こりうる状況を想定し、穴ふさぎをやった後でなければ行動に移すことができない。最も効率を目指すならば、基本的な構造をしっかりと作った上で、実際に行動を行ってみて、その失敗をできるかぎり素早く収集し、改修を行うことだ。また、いったん失敗をしてしまうと、それに対するお詫びや「被害」の回復のために、おびただしい労力が投入されることになる。それは、行為に付随するコストの増大につながる。さらに、失敗の「被害」に対する大きな反応は、人々の意識を高め、より問題の鋭敏化に拍車をかける。

 我々は、失敗に対する見方を改め、もっと失敗に寛容な社会をつくる必要があるだろう。失敗に厳しい社会は、結果的には、社会の現場で従事する国民の就業環境を害することにつながる。その負担は、現場に近い者に対して大きく、現場に遠い者に対して少なく、不均等であることに注意が必要だ。真に憎むべきは偽造や捏造、虚偽、意図的な不正だ。意図せざる失敗には寛容であるべきだ。